光と影の国技館
九月場所、千秋楽。
満員御礼の垂れ幕が下りた両国国技館は、地鳴りのような熱気に包まれていた。
俺は今日、三段目の全勝優勝をかけた、俺の千秋楽の土俵に立っていた。
相手は、かつて幕下の上位までいったことのあるベテランの曲者だったが、今の俺の敵ではなかった。
「――はっけよい!」の瞬間、俺は迷わず低く鋭く踏み込み、相手が仕掛けてくる前に下から骨盤を押し上げた。出稽古で雷電関から学び、今場所磨き続けた「重心を奪う押し」。
抵抗する間もなく、相手の身体が土俵の外へと吹っ飛んだ。
「勝負あり!」
行司が軍配をピシッと向け、鋭い声を轟かせる。一礼の後、軍配は轟は上がる。
館内を揺らす大歓声。
これで7戦全勝。序ノ口、序二段に続き、三段目でも「全勝優勝」の快挙を成し遂げた。
「轟、おめでとう……!」
花道に戻ると、琴音ちゃんが目を真っ赤にして待っていた。その黒髪で、桜色のかんざしが誇らしげに揺れている。彼女もこの十五日間、小さな部屋のマネージャーとして、大部屋に負けない完璧なサポートをやり遂げたのだ。
「ありがとうございます、琴音ちゃん」
若鳥さんも、満吉も、金剛山さんも、みんなが俺の背中を叩いて喜んでくれた。
通路の奥では、うちの親方がいつも通り熱いお茶の入った湯呑みを手に、気恥ずかしそうに鼻の頭をこすりながら、小さく頷いていた。
だが、夕方の表彰式を終え、すべての取組が終わった国技館の通路のさらに奥、幕下上位の支度部屋には、凍りつくような空気が漂っていた。
モニターには、その日の夕方に行われた幕下西筆頭(1枚目)・御剣の最後の相撲が映し出されていた。
デビュー以来、一度の負け越しもなく、すべての場所で圧倒的な勝ち星を叩き出して最速で幕下最上位まで駆け上がってきた怪物。今場所を5勝2敗という好成績で終え、誰もが「十両(関取)昇進は確実」だと信じていた。
しかし、十両以上の全取組が終わり、関取衆の星勘定が出揃った瞬間、支度部屋に冷酷な現実が突きつけられた。
今場所、十両の地位で負け越した後退者が、想定よりも極めて少なかったのだ。
大相撲の厳格な番付編成において、関取に上がれる枠の数は、落ちてくる者の数で決まる。いくら「幕下1枚目で5勝」という文句なしの成績を残しても、空き枠がなければ、番付は据え置かれる。
『御剣、今場所の十両昇進は見送りか――』
関係者の非情な囁きが廊下に漏れ聞こえた瞬間、御剣は荷物カゴの前で、拳を血がにじむほど強く握りしめていた。
勝って当たり前と言われ、周囲からの凄まじい期待を背負い、極限のプレッシャーの中で「5勝2敗」という堂々たる結果を出した。それなのに、運命の悪戯で、関取の座を阻まれたのだ。
御剣が、ギリッと激しく奥歯を噛み締め、鬼気迫る空気を纏って支度部屋を出ていく。
その時、表彰式を終えて浴衣姿で引き揚げてきた俺と、通路の真ん中で視線が真っ正面からぶつかった。
三場所連続の全勝優勝を飾り、光の中にいるザンバラ髪の俺。
圧倒的な快進撃を続けながらも、あと一歩で影に呑まれた御剣。
御剣の鋭い眼光が、俺の胸元、それから俺が手に入れた三段目優勝の賞状へと注がれる。彼は何も言わなかった。だが、そのすれ違いざまの視線は、明確に語っていた。
(早く上がってこい。お前を叩き潰してやる)
すれ違う刹那、俺の身体の芯がゾクリと震えた。
大関・雷電とはまた違う、同世代の怪物が放つ、死に物狂いの執念。
九月場所、閉幕。
俺の戦績は7戦全勝。次なる十一月場所、俺はいよいよ、あの怪物の待つ「幕下」の土俵へと足を踏み込む。
(九月場所編第7話・了)




