荒磯部屋のまかない事情
「う、うめぇぇぇ……! なんですかこれ、無限に食えます!」
さっきまで土俵の上でプロ力士を吹き飛ばしていた男は、いまや大広間で輝かんばかりの笑顔を浮かべ、猛烈な勢いで箸を動かしていた。
目の前にあるのは、直径四十センチはあろうかという巨大なすり鉢。
そこになみなみと注がれた塩ちゃんこ鍋が、轟の底なしの胃袋へ次々と吸い込まれていく。
「ちょっと轟くん、落ち着いて食べなさいよ! 鍋は逃げないから!」
エプロン姿の琴音は、空になった一升炊きの炊飯器の内釜を抱えながら、半ば呆れ、半ば感心したように声を上げた。
「だって琴音さん、このつくね、めちゃくちゃジューシーで最高です! ご飯、もう一杯おかわりいいですか?」
「もう一杯って、それですでに五杯目よ!?……はい、どうぞ」
文句を言いつつも、琴音は嬉しそうに山盛りのご飯を差し出した。
料理人にとって、自分の作ったご飯をここまで美味しそうに、しかも大量に平らげてくれる存在は最高の癒やしだ。
先ほど土俵で見せた猛獣のような恐ろしさはどこへやら、今の轟はただのよく食べる元気な青年にしか見えない。
「がはは! いい食いっぷりだ!」
隣でビールをあおりながら、親方が満足げに太鼓腹を叩く。
「いいか轟くん、相撲取りにとって『食うのも稽古』だ。どんなに素質があっても、胃袋が小さければプロの激しいぶつかり合いに耐える体は作れん。お前はその点でも間違いなく天才だ」
「食べて褒められるなんて、相撲部屋って天国ですよ!」
もぐもぐと口を動かしながら、轟はのんきに笑う。
その様子を、少し離れた席でテーピングを巻きながらちゃんこを突ついていた金剛山が、複雑な表情で見つめていた。
「……おい、大河原」
金剛山の太い声に、部屋の空気が少しピリつく。
轟は「はい?」と箸を止めて金剛山を見た。
「さっきは、悪かったな。素人だとナメてた。お前、本当に相撲をやったことがねえんだな?」
「はい、体育の授業でちょっと触ったくらいです」
「……そうかよ。あの一歩の踏み込み、とんでもねえ衝撃だったぜ!」
ぶっきらぼうにそう言って、金剛山はちゃんこをかっこんだ。
他の力士も、轟を見る目に、どこか「もしかしたら、この部屋に凄い奴が来たんじゃないか」という小さな希望の光を宿し始めている。
そんな温かい空気の中、琴音がふと真面目な顔で轟に尋ねた。
「ねえ、轟くん。本当にお父さんの言う通り、相撲をやるの? 高校生最後の夏休みだし、進路とか、いろいろあるんでしょう?」
その問いに、轟は山盛りのご飯を飲み込んで、ぽりぽりと頭を掻いた。
「うーん、実は進路指導の紙、白紙のままなんですよね。やりたいことも特になかったし。でも……」
轟は、自分の大きくて分厚い手のひらを見つめた。
「さっき、土俵の上で思いきり体を動かしたとき、すごく気持ちよかったんです。あそこなら、僕、全力でいてもいいのかなって」
いつもニコニコしている轟が、少しだけ真剣な、真っ直ぐな目でそう言った。
その言葉を聞いた瞬間、琴音はふと、息をのんだ。
ただの大食いじゃない。
彼には、彼にしか分からない「孤独」や「窮屈さ」があったのだと、琴音は知った。
「だったら、決まりだ!」
親方がドンとテーブルを叩いた。
「轟くん、この夏休み、我が荒磯部屋に『体験入門』として住み込みで稽古をしてみんか? 飯は琴音が毎日いくらでも作ってやる!」
「え、本当ですか!? 毎日このちゃんこがタダで食べられるなら、俺、喜んでここにいます!」
「ちょっとお父さん! 勝手に決めないでよ!」
琴音は抗議したが、轟が「琴音さんのご飯、毎日食べられるの嬉しいです!」と無邪気な笑顔を向けてくるものだから、「……まあ、残さず食べるなら、いいけど」と、視線を逸らしてモゴモゴと呟くしかなかった。
こうして、大河原轟の、荒磯部屋での熱い夏休みが幕を開けた。
しかし、この時の轟はまだ知らなかった。
この年の夏、相撲の名門・東関部屋に、全ての大会を総なめにしてプロ入りを表明した同い年の「高校生横綱」が、すでに大きな話題になっているということを――。
(第4話・了)




