土俵の上の獣
「これ、お尻丸出しじゃないですか?」
荒磯部屋の更衣室。
轟は初めて締めた「まわし」の心もとなさに、首を傾げていた。
196センチ、125キロ。
贅肉ではなく、十代特有の張りのある筋肉が詰まったその裸体は、まわし姿になったことで、より一層の威圧感を放っていた。
「がはは! 力士はみんなこれだ、気にするな!」
親方に背中を叩かれ、轟は「はぁ、そういうもんですか」と、のそのそと稽古場へ向かった。
夕方の稽古場は、昼間の熱気がこもり、砂と汗、そしてびん付け油の匂いが混ざり合って、独特の重苦しい空気が満ちていた。
土俵のまわりには、荒磯部屋の所属力士たちが数人、けだるげに座っている。
怪我で伸び悩む三段目のベテランや、体格の小さな序二段の力士。
かつての名門も、今や彼らだけ。
部屋全体に、どこか諦めのような泥臭い空気が漂っていた。
そこへ現れた196センチの轟を見て、力士たちの目が一瞬で変わった。
「デカいな……」「また親方がどっからか素人を引っ張ってきたのか」と、小声の私語が漏れる。
「よし、金剛山! ちょっと轟くんの相手をしてやってくれ。軽く胸を出すだけでいい」
親方に指名されたのは、ベテラン力士・金剛山だった。長年プロの土俵でもまれてきた男だ。
金剛山は、まわしの感触を確かめるように腰をひねっている轟をジロリと睨みつけ、土俵に上がった。
「おい、お兄ちゃん。相撲ってのはな、デカければ勝てるって競技じゃねえんだ。怪我したくなきゃ、適当に転がっときな」
「よ、よろしくお願いします! ちゃんこを食べに来ただけなんで、お手柔らかに……」
ペコリと頭を下げる轟に、金剛山は「ナメやがって……」と不快げに鼻を鳴らした。
プロの厳しさを教えてやる。
そんな無言の圧力が稽古場を支配する。
土俵の脇では、エプロン姿の琴音が冷や冷やした様子で見守っていた。
「ちょっと、お父さん、本当に大丈夫なの? 金剛山さん、怒らせたら怖いんだから……」
「まあ見ていろ、琴音。怪物が目覚める瞬間をな」
親方の目は、獲物を狙う鷹のように鋭くなっていた。
「お互い、腰を割って。……構えて」
親方の声に合わせ、金剛山が手慣れた動作で仕切り線に拳を下ろす。
轟も、よく分からないまま、言われた通りに真似をして腰を深く落とした。
196センチの巨躯が、低く沈み込む。
その瞬間、轟の頭の中で、あの『スイッチ』がカチリと切り替わった。
(……あの時と同じ感覚だ)
坂道で、数百キロの台車が迫ってきたあの感覚。
目の前にいる男から、明確な『圧力』が自分に向かって放たれている。
逃げ場のない直径4メートル55センチの円の中。ここで生き残るためには――。
轟の顔から、一瞬で表情が消えた。
前髪の隙間から覗く瞳が、金色に濁り、冷徹に据わる。
背筋が凍るような圧倒的な覇気が、轟の全身から陽炎のように立ち上った。
「――っ!?」
仕切る金剛山の額に、冷や汗がドッと噴き出した。
(な、何だこいつは……!? 急に、空気が変わった……!?)
目の前の素人が、まるで飢えた巨大な野生の肉食獣に見えた。
プロとして何百回と土俵に上がってきた金剛山の防衛本能が、「危険だ」と最大級の警報を鳴らす。
張り詰めた沈黙。
親方の右手が、鋭く振り下ろされた。
「――はっけよい!」
「ぬおおおおおっ!!!」
金剛山が恐怖を振り払うように、全力の立ち合いでぶつかりにいった。
彼の鍛えられた身体が、弾丸のように轟の胸へ突き刺さる――はずだった。
ドガァァァァァンッッ!!!
稽古場の木造の天井が震えるほどの、凄まじい衝突音が炸裂した。
「が、はっ……!?」
衝撃に、金剛山の思考が真っ白になった。
自分がぶつかりにいったのではない。
轟の、型も何もない、ただ本能のままに前へ踏み込んだ『原始的な一歩』が、金剛山の立ち合いを完全に上回ったのだ。
轟の目の光は、狂暴なまでに据わっている。
ただ、丸太のような両腕を金剛山の胸にガチリとあてがうと、理不尽なまでの超怪力で、文字通り前へ『突進』した。
引き技も、いなしも、技術など何もない。ただの圧倒的な推進力。
「な、なんだこれ、うご、動かねえ……っ!」
金剛山がどれだけ足を踏ん張ろうとしても、轟の鉄柱のような両足は、土俵の砂を強烈に噛んで一歩も退かない。
それどころか、金剛山の体が、ズズズと後ろへ引きずられていく。
轟が無言のまま、さらに腰を落として下から突き起こした。
その瞬間、金剛山の身体がふわりと宙に浮いた。
「え――」
琴音が短い悲鳴を上げる。
次の瞬間、100キロ越えのプロ力士が、土俵の外――板張りの壁際まで、吹き飛ばされて転がった。
ドスゥンっ!!!
激しい衝撃音が響き渡り、稽古場に、砂煙が舞う。
「はぁ……はぁ……」
静まり返る稽古場。
座っていた力士たちは全員、立ち上がったまま石のように硬直していた。
誰も声が出せない。
金剛山は壁に背中を預けたまま、「バカな……」とうわ言のように呟き、自分の震える手を見つめていた。
轟はゆっくりと直立すると、すっと据わっていた目の光を消した。
そして、笑顔に戻って、自分の頭をぽりぽりと掻いた。
「あ、すみません! 力、入りすぎちゃいました。金剛山さん、怪我ないですか?」
その場にいた全員が、思わず唾を飲んだ。
親方だけが、静かに、しかし深く、満足げに頷いていた。
「どうだ、轟くん。これが相撲だ。全力でぶつかり合ってもいいんだよ」
轟は、自分の手のひらを見つめた。
いつも、周りを壊さないように、傷つけないようにと無意識のうちに抑えていた自分の力が、ここでは100%解放できる。
その奇妙な高揚感に、轟の胸がほんの少し、熱くなった。
「……すごいです。相撲って、面白いかも」
「そうか! よかった。ではお待ちかねのちゃんこだ! 琴音、轟くんに特大の大盛りで出してやれ!」
「え、あ、うん……! すぐ準備するっ!」
呆然としていた琴音は、慌てて厨房へと走った。
その脳裏には、先ほどまで「ただの大食い」だと思っていた青年が見せた、あの獰猛で、それでいて思わず目を奪われた横顔が、焼き付いて離れなくなっていた。
(第3話・了)
横綱 :最高位
大関 :最高位に次ぐ地位
関脇 :三役
小結 :三役
前頭 :幕内の平幕
十両:ここまでが給料の出る「関取」幕下以下 :下から「幕下」「三段目」「序二段」「序ノ口」




