ちゃんこの匂いに誘われて
登場する力士、部屋名、その他名称は全てフィクションです。現実とは一切関わりありません。
出来るだけ現実の大相撲の世界に寄せたいので、実際に存在する部屋や、四股名が出てきますが、気にせず読み流してください。
高校生活最後の夏休みが始まったというのに、大河原轟の生活は普段と何も変わっていなかった。
昼過ぎに起き、冷やし中華を三人前ほど平らげ、クーラーの効いた部屋でゴロゴロする。
進路指導の紙には『未定』とだけ書いていた。
しかし、本人に危機感など微塵もない。
「おーい、轟! またあの着物の人が来てるよ!」
一階の居間から母親の呆れたような声が響き、轟は「はぁ、またかぁ」と頭を掻いた。
あの日、坂道で台車を止めて以来、荒磯親方が、毎日のように轟の家に通い詰めていた。
玄関を開けると、独特のびん付け油の甘い香りと共に、満面の笑みを浮かべた親方が立っている。
「おお、轟くん! 今日もいい体格をしておるな! どうだ、我が荒磯部屋で横綱を目指す気は固まったか!?」
「いやー、親方さん。俺、痛いの嫌いですし、そもそも相撲のことよく知らないんですよ。テレビでも見たことないし」
轟は196センチの巨体を縮めるようにして玄関に座り込んだ。
親方はめげない。むしろ、あの屈託のない笑顔の裏に潜む『怪物の眼光』をもう一度見たくてウズウズしている。
「相撲はいいぞぉ! 礼節を学び、心身を鍛え、男を磨く神事だ。君のあの天性の足腰があれば、一年で関取になれる!」
「うーん、でも毎日の稽古とかキツそうだし……」
そっぽを向く轟。
熱血な勧誘は、彼には響かない。
それを察した親方は、ふっと不敵な笑みを浮かべ、懐から一枚のチラシを取り出した。
「ふむ……。実はな、今日の荒磯部屋の夕飯は、特製の『塩ちゃんこ鍋』なんだ。高級地鶏で出汁を取り、琴音――うちの娘が包丁を振るった極上のつくねがこれでもかと入っている。もちろん、米は食べ放題だ」
ゴクリ、と轟の喉が鳴った。
親方は見逃さない。
「体験入門という名目でな、ちょっと部屋を見学しにくるだけでいい。タダで、美味いちゃんこを、腹がはち切れるまで食わせてやるが……どうだ?」
「……行きます。ちょっと待っててください」
轟の行動原理の8割を占める『食欲』が、一瞬で勝利した瞬間だった。
親方に連れられてやってきたのは、両国の下町にひっそりと佇む『荒磯部屋』。
かつては数々の名力士を輩出した名門らしいが、看板は少し古びており、どこか寂しい雰囲気が漂っている。
「ほら、入った入った」
親方に促されて中に入ると、びん付け油の香りが一気に濃くなった。
板張りの廊下を進み、ガラス戸の向こうに見えたのは――直径4メートル55センチの、土。
(へえ……これが土俵か。テレビで見るより小さく見えるな)
轟がそんな感想を抱いていると、ドタドタと足音がして、一人の少女が奥から怒ったように駆けてきた。
「もう、お父さん! また強引に人を連れてきて――って、デカっ!?」
エプロン姿の少女は、轟を見上げるなり、思わず首を反らした。
彼女こそ、親方の娘であり、荒磯部屋のマネージャー兼料理番を務める高校生・荒磯琴音だった。
小柄だが、芯の強そうなパッチリとした瞳が印象的な美少女だ。
「琴音、こちら大河原轟くんだ。私が街で見つけた。とんでもない才能の持ち主だよ。轟くん、これが娘の琴音だ」
「あ、はじめまして。大河原轟です。ちゃんこ鍋、食べさせてくれるって聞いたんで」
196センチの巨体で、頭を下げる轟。
琴音は一瞬その迫力に圧倒され、目を瞬かせた。それから轟の屈託のない笑顔を見て、ふっと息を吐いた。
「はぁ……お父さんの強引なスカウトに釣られちゃったわけね。いいけど、うちは今、本当にお金がないんだから、残さずたくさん食べなさいよ?」
「はい! お任せください!」
この時、琴音はまだ思っていた。
『体ばっかり大きくて、ただの大食いの男の子』と。
しかし、親方の目的は、単にちゃんこを食べさせることではなかった。
「よし、轟くん。飯の前に、少しだけ『着替えて』みようか。せっかくだから、ちょっとだけ土俵の砂を踏んでみようじゃないか」
親方の目が、ギラリと怪しく光った。
(第2話・了)




