土俵の底力
九月場所の九日目。
俺はここまで、初日から無傷の4連勝で早々と勝ち越しを決めていた。
だが、三段目の本当の戦いはここからだった。全勝同士がぶつかり合う終盤戦。
今日の相手は、鳥取の相撲名門高校で国体個人ベスト4に入り、鳴り物入りで角界入りした「東洋海」という若手だった。
身長は180センチそこそこだが、体重は140キロ近くある。
何より、徹底的に鍛え上げられた低い下半身と、おっつけ(相手の脇を厳しく締めて起こす技術)の名手として、今場所の三段目で最も注目されている男だった。
「――はっけよい!」
行司の軍配が返った瞬間、目の前が真っ暗になるほどの衝撃が走った。
東洋海の立ち合いは速かった。
俺がいつものように低く潜り込もうとした瞬間、万力のような力で俺の左脇をおっつけ、強引に上体を起こしにかかってきたのだ。
(――くっ!)
出稽古で大関に通用したはずの「低い踏み込み」が、技術で封じられた。
上体を起こされた俺の胸へ、東洋海の重い突っ張りが容赦なく突き刺さる。ドスン、ドスンと、肉が潰れるような鈍い音が国技館に響く。
一歩、二歩と、俺の足が俵の近くまで後退した。館内がワッと沸き立つ。
「轟! 残せ! 足を張れ!」
向こう正面の控えに座っている若鳥さんの、割れんばかりの叫び声が聞こえた。
自分の成績で苦しんでいるはずの先輩が、土俵の下から、声を枯らして俺に叫んでいる。
(まだだ――)
大関・雷電の、あの岩のような壁に比べれば、この圧力はまだ耐えられる。
俺は俵に踵を引っ掛け、上体が起き上がった状態のまま、強引に腰を落とした。毎日金剛山さんの胸を借りてきた左腕、そして毎日テッポウを叩き込んできた右腕を、東洋海の分厚い胸へと力任せに突っ張る。
バチィン!
乾いた音がして、今度は東洋海の顎が上がった。
一瞬の硬直。その隙を逃さず、俺は残った力を足の裏に込め、泥臭く前へ食らいつくようにして、東洋海の巨体を土俵の外へ力任せに押し出した。
「……勝負あり、勝者、轟」
軍配が俺に上がる。
東洋海は土俵の下で悔しそうに砂を叩いていたが、すぐに立ち上がって俺に一礼した。
俺も深く一礼を返す。全身が激しく脈打ち、額からは大粒の汗が砂の上に滴り落ちた。簡単には勝たせてくれない。これが三段目の上位、プロの底力だ。
花道を戻ると、若鳥さんが先に待っていた。
「……危ねえ相撲してんじゃねえよ、バカ野郎」
若鳥さんはぶっきらぼうにそう言うと、俺の頭に手拭いを手荒にバサッと被せた。
だけど、その目は怒っていなかった。同じ三段目で戦う仲間として、俺の5連勝を確かに喜んでくれていた。
「ごっつぁんです」
手拭いの中で、俺は小さく息を吐いた。
「轟、お疲れ様! すぐ冷たいお水持ってくるね!」
通路の先から、冷水機のお水を入れたペットボトルを持った琴音ちゃんが走ってくる。
走った拍子に、彼女の髪の桜色のかんざしが、シャラリと微かな音を立てた。その笑顔を見て、喉の渇きが、すっと和らいでいくような気がした。
これで5連勝。
三段目全勝優勝へ向けて、残る取組はあと2番。
そしてその夜、部屋のテレビを囲む俺たちの前で、親方がいつも通り熱いお茶をズズッとすすりながら、一枚の張り紙を睨みつけていた。
十一日目の対戦相手が、発表されたのだ。
(九月場所編第5話・了)




