二つの背中
九月場所は五日目を迎えていた。
五日目を終えた俺の戦績は、初日から負けなしの三連勝。
三段目の土俵でも、出稽古で掴んだ「低く潜り込んで相手の重心を奪う押し」が完全にハマっていた。力任せに振り回していた序二段の頃とは違い、効率よく、最短距離で相手を土俵の外へ送り出す相撲。
館内の相撲ファンからも「荒磯部屋のザンバラ、また勝ったぞ」と、少しずつ名前が囁かれ始めていた。
だが、部屋の空気はどこか重かった。
「……クソっ」
国技館の支度部屋の隅で、若鳥さんが低く毒づきながら、まわしに挟んだ手拭いで荒々しく顔を拭った。
若鳥さんは今日、立ち合いの変化に引っかかって土俵に這い、二敗目を喫した。三段目の上位ともなると、一筋縄ではいかない曲者ばかりだ。地力があっても、一瞬の隙が命取りになる。
俺は若鳥さんの背中を見つめていた。
これまでは、部屋を引っ張る頼れる先輩の背中だった。だけど今、三段目の同じ土俵に並び、俺が全勝で駆け上がる一方で、若鳥さんは足踏みをしている。その焦りとプライドが、張り詰めた空気となって部屋の若手たちに伝わっていた。
「若鳥さん、お疲れ様です。……お茶、どうぞ」
そこへ、荷物カゴを抱えた琴音ちゃんが、そっと湯呑みを差し出した。
初日に比べれば、琴音ちゃんの動きもずいぶん落ち着いてきている。大きな部屋のマネージャー陣に混ざって、通路の交通整理や親方衆への挨拶など、裏方の仕事を必死にこなしている姿をよく見かける。
「……おう、ごっつぁん」
若鳥さんは湯呑みを受け取ったが、俺とは目を合わせないまま、先に支度部屋を出ていってしまった。
「轟……」
琴音ちゃんが、心配そうに俺の顔を見上げる。その髪の桜色のかんざしが、支度部屋の蛍光灯の下で小さく揺れた。
「大丈夫です。若鳥さんは、こんなところで終わる人じゃない」
俺は自分に言い聞かせるように応えた。
自分の取組を終えて私服の甚平に着替えた後、俺は金剛山さんの体のケアも兼ねて、夕方近くまで支度部屋に残っていた。その時、大部屋の壁に掛けられたテレビのモニターから、一際大きな歓声が響いてきた。
画面に映っていたのは、その日の終盤に行われた幕下最上位の土俵だ。
「押し出し! 御剣の勝ち!」
アナウンサーの興奮した声とともに、画面の中で鋭い目つきの男が、勝ち名乗りを受けていた。
御剣。4勝0敗。
十両昇進、つまり「関取」の座を目前に控えた男の相撲は、凄まじい気迫に満ちていた。一敗も許されない極限のプレッシャーの中で、彼は自分の相撲を完全に研ぎ澄ませている。
画面の中の御剣の姿を見つめながら、俺は無意識に右の拳を強く握りしめていた。
出稽古で大関・雷電に叩きつけられ、世界の頂点を見た。
だけど、俺が最初に超えなければならない壁は、今、あの画面の向こうで死に物狂いで戦っている御剣だ。彼がいる幕下の土俵へ、俺は一歩でも早く、這い上がらなければならない。
「轟、次の六日目で勝ち越せば、いよいよ三段目の上位陣との対戦になるからな。気を引き締めろよ」
いつの間にか後ろに立っていた金剛山さんが、俺の肩に手を置いた。
「はい」
俺は低く応えた。
若鳥さんの焦り、琴音ちゃんの気遣い、そして御剣の執念。
いろんな感情が渦巻く国技館の片隅で、俺はただ、次の白星だけを見据えていた。
(九月場所編第4話・了)




