初日の星
九月場所の初日。
東京の空はすっきりと晴れ渡っていたが、荒磯部屋の空気は朝から張り詰めていた。
今日から俺は三段目として土俵に上がる。
名古屋場所での序二段全勝優勝を経て、番付は一気に上がった。だが、出稽古で大関・雷電に叩きつけられたあの衝撃は、今も背中に生々しく残っている。
「轟、まわし締めるぞ。こっち来い」
若鳥さんに呼ばれ、俺は一歩前へ出た。いつものプレハブの稽古場ではなく、母屋の少し広い畳の間。若鳥さんが俺の腰にまわしをあてがい、ぐっと力を込めて締め上げていく。
「よし、いい張りだ。出稽古の成果、見せてやれよ」
若鳥さんが俺の背中をバチンと叩いた。その顔には、いつもの余裕はなく、同じ三段目として戦う男の険しさがあった。
「ごっつぁんです」
俺が頭を下げて立ち上がったとき、障子が開いて琴音ちゃんが入ってきた。
「みんな、お弁当とタオルの準備できたよ。……あ」
琴音ちゃんは俺のまわし姿を見て、一瞬だけ足を止めた。
その黒髪には、約束通り、浅草で贈った桜色のガラスのかんざしが、きらりと光っていた。いつもは作業用に適当に結んでいる髪が、今日は心なしか綺麗に整えられている。
「よく似合ってます」
俺が言うと、琴音ちゃんは少し照れくさそうに、でもすぐにマネージャーとしての引き締まった顔に戻って微笑んだ。
「ありがとう。今日から私も、初めて本場所の裏方として国技館に入るから……ちょっと緊張しちゃって。でも、このかんざしがあるから大丈夫。轟も、初日、絶対勝ってね」
同い年の彼女も、今日が本当の初陣なのだ。高校を卒業し、この小さな部屋のマネージャーとしてプロの世界に足を踏み込んだ。その覚悟が、真っ直ぐな瞳から伝わってくる。
「……はい。必ず」
俺は低く応え、左手首の金剛山さんの腕時計をそっと外して、荷物の中に仕舞った。
国技館の楽屋は、名古屋の地方宿舎とは比べものにならない熱気と、独特のびん付け油の匂いに満ちていた。
廊下をすれ違う力士たちの体躯も、序二段の頃とは明らかに違う。誰もが鋭い眼光で、自分の出番を待っていた。
「三段目、東――轟。西――」
館内アナウンスに俺の名前が呼ばれる。
土俵へと続く薄暗い花道を歩く。
パッと視界が開け、両国国技館の巨大な吊り屋根と、午前中独特の、まだまばらながらもピリッと張り詰めた観客席が目に飛び込んできた。
土俵に上がり、相手と向き合う。
初日の対戦相手は、学生相撲出身の若手力士だった。体格は俺より二回りほど小さいが、構えに全く隙がない。
(ただ、押すだけじゃ駄目だ)
大関の壁にぶつかったからこそ、今の俺には分かる。ただの怪力は、上の世界では通用しない。
お互いに仕切り線へ進み、深く腰を下ろす。
じっと相手の目を見据え、呼吸を合わせる。拳が砂に触れた。
「――はっけよい!」
仕切り線から弾丸のように突っ込む。
ぶつかる寸前、俺はあえて上体を起こさず、出稽古の最後に見出したように、さらに一歩、低く踏み込んだ。相手の鋭い突っ張りが俺の肩を叩くが、重心を低く保った俺の身体は一歩も引かない。
逆に、相手の懐の下へ、俺の132キロの質量が滑り込んだ。
「――っ!」
相手の顔が一瞬、驚愕に歪む。
俺は下から相手の骨盤を押し上げるようにして、一気に前へ出た。力任せのハズ押しではない――相手の重心を根こそぎ奪い去る、進化した押しだった。
抵抗する間もなく、相手の力士の身体が、軽々と土俵の外へと弾き飛ばされた。
「勝負ありっ!!」
行司の独特の鋭い声が、午前中の静かな館内に高く響き渡る。
俺は一礼し、土俵を下りた。息は全く乱れていない。
花道を戻る途中、通路の奥で、大きなカゴを持った琴音ちゃんが待っているのが見えた。俺の姿を見て、ほっとしたように胸をなでおろし、小さくガッツポーズをしている。
その髪で、桜色のかんざしが誇らしげに揺れていた。
初日、白星。
俺たちの九月場所が、静かに幕を開けた。
(九月場所編第3話・了)




