白まわしの壁
「出稽古」とは、所属する相撲部屋を出て、別の部屋に出向いて合同で稽古を行うこと です。自部屋にはないタイプの力士と手合わせして技を磨いたり、実戦的な経験を積んだりする目的で古くから行われています。
山鳴部屋の門をくぐった瞬間、空気の重さが違った。
突き抜けるような、太い掛け声。バチィン、と肉と肉が激しくぶつかる音が、建物全体を震わせている。
稽古場に入ると、すり鉢状になった広い土俵のまわりに、まわし姿の男たちが何十人もひしめき合っていた。
「……うわぁ」
俺のすぐ後ろで、満吉が完全に気後れして声を漏らした。
若鳥さんも、いつもより顔がこわばっている。
土俵の奥には、黒いまわしではなく、一際目を引く白いまわしを締めた男がどっしりと座っていた。
山鳴部屋の看板、現役大関・雷電だ。
首周りの筋肉が丸太のように太く、ただ座っているだけで、周囲の空気を丸ごと支配しているような威圧感があった。大関は、うちの親方が入ってきたのを見ると、黙って小さく顎を引いて挨拶を返した。
「おい、新顔だ。まずは若鳥、上がれ」
山鳴部屋の部屋頭の声で、申し合い稽古が始まった。
まずは若鳥さんが土俵に上がった。他所の三段目を相手に、意地になって何度も頭からぶつかっていく。泥だらけになりながら勝ちと負けを繰り返す若鳥さんの姿を見て、俺の胸の奥が熱くなる。
「次、ザンバラ。上がれ」
ついに俺の番がきた。
土俵に一歩足をかけると、まわりの力士たちの視線が一斉に突き刺さった。196センチの俺の体躯を見て、静かなざわめきが広がる。
最初の相手は、山鳴部屋の幕下力士だった。格上だ。
お互いに泥だらけの手に砂をつけ、腰を下ろす。
軍配が返った瞬間、相手が鋭い出足でぶつかってきた。
だが、その衝撃は、いつも部屋で金剛山さんや若鳥さんと培ってきたものより、少し軽く感じた。
俺は相手の圧力を下半身で受け止めると、そのまま下から両腕をあてがい、一歩、前へ踏込んだ。
ただそれだけの、不格好な押し。
なのに、132キロの質量がまともに乗った俺の出足に、格上の幕下力士が面白いようにのけぞり、そのまま土俵の外へ弾き飛ばされた。
「……おい、マジかよ」
まわりから声が漏れる。
その後も、俺は土俵に残り続けた。
次々に出てくる三段目、あるいは幕下の力士を、声を上げることもなく、淡々と、ただ前への圧力だけで土俵の外へ押し出し続けた。
5人、6人、7人。
気がつけば、山鳴部屋の稽古場から雑音が消え、全員が俺の相撲を凝視していた。
「――そこまで」
低く、地響きのような声がした。
土俵の奥に座っていた大関・雷電関が、ゆっくりと腰を上げた。
大関は白いまわしを叩いて砂を落とし、のっしのっしと土俵に上がってきた。その巨大な身体が目の前に迫る。196センチの俺と、ほぼ同じ目線。だけど、身体の厚みと、放たれるオーラがまるで違った。
「荒磯のザンバラ。俺が胸を出してやる。思いきり来い」
稽古場の緊張感が、一気に最高潮に達した。
「轟、いけ!」
土俵の下から、若鳥さんの叫ぶような声が聞こえた。
俺は深く腰を下ろし、大関を見据える。
これまで本場所でも部屋でも、立ち合いで負けたことは一度もない。俺のこの身体なら、大関が相手でも一歩は押し込めるはずだ。
呼吸を合わせ、一気に突っ込んだ。
頭から、大関の胸へと全力でぶつかる。ゴツン、と鈍い音が響いた。
(――な、んだこれ)
衝撃が、自分の脳天にそのまま跳ね返ってきた。
岩。いや、鋼鉄の壁だ。
いつもなら一歩で相手を数メートル後退させる俺の突進を、大関は足元の一粒の砂さえ動かさず、真正面から完璧に受け止めていた。
大関の太い両腕が、俺の首の付け根と脇の下にカチッと嵌まる。
万力で締め付けられたように、身動きが取れなくなった。
「力はいい。だが、浮いてるぞ」
大関の短い呟きと同時に、下から凄まじいハズ押しが襲ってきた。
俺の132キロの身体が、いとも簡単にフワリと宙に浮く。
視界がぐにゃりと回転した。
次の瞬間、俺は背中から激しく土俵に叩きつけられていた。
ボフッ、と重い音がして、大量の砂が舞う。
背中に衝撃が走り、肺の中の空気が全部外に飛び出した。ゲホッ、と激しく咳き込む。
生まれた初めての、完全な敗北。
土俵の天井を見上げながら、俺はただ、呼吸を整えることしかできなかった。
「ほら、立て。まだまだ行くぞ」
大関の冷徹な声が、上から降ってきた。
俺は砂まみれの顔のまま、奥歯をギリッと噛み締めた。
泥を払う間もなく立ち上がり、再び大関の胸に頭からぶつかる。だが、次も、その次も、俺の身体はまるで子供のように簡単に土俵へ転がされた。
何十回ぶつかったか分からない。
全身が砂と汗でドロドロになり、膝がガクガクと震える。視界がチカチカして、土俵の下で見守る若鳥さんや満吉の顔がまともに見えない。口の中に血の味が滲んでいた。
それでも、俺は無言のまま立ち上がり、大関に向かっていった。
ただの力任せじゃ駄目だ。ぶつかる瞬間、大関の重心がどこにあるのかを、体幹のどこで俺の圧力を殺しているのかを、泥にまみれながら必死に身体で探ろうとしていた。
最後の1回。
俺は意識が飛びかけている中、ただ突っ込むのではなく、大関の胸に当たる寸前、わずかに腰を低く落とし、相手の懐の下へ潜り込むようにしてぶつかった。
一瞬、大関の巨体が、ほんの数センチだけピクリと後ろに揺れた。
「――ほう」
大関の目が、初めて鋭く光った。
直後、強烈な上手投げを打たれ、俺は今日一番の勢いで土俵の下へ転がり落ちた。
「そこまで」
山鳴親方の声で、ようやく稽古が終わった。
俺は土俵の下の砂の上に大の字になり、天を仰いだまま動けなかった。全身の筋肉が悲鳴を上げている。
大関は土俵の上から、肩で激しく息をする俺をじっと見下ろした。
「いい身体をしてる。最後の一歩、悪くなかったぞ」
大関はタオルで顔を拭いながら、不敵に目を細めた。
「早く幕内まで上がってこい」
その言葉を残し、大関は風呂場へと去っていった。
稽古場の片隅で、俺たちの親方が湯呑みのお茶をズズッとすすりながら、満足そうに鼻の頭をこすっているのが見えた。親方が泥をかぶってまで作ってくれた機会の意味が、今の俺には痛いほど分かった。
「おい、轟、大丈夫か!」
若鳥さんと満吉が駆け寄ってきて、俺の巨体を抱き起こしてくれた。
「……はい」
俺は喉の奥を鳴らし、大関の相撲の重みを思い出す。
大関・雷電。これが、大関。
御剣を倒すどころじゃない。その遥か上に、本物の怪物が腕を組んで待っている。
初めて味わった敗北の痛みは、最悪で、そして最高に俺の身体を飢えさせていた。
俺はまだ、強くなれる。
(九月場所編第2話・了)




