親方のお土産
東京へ戻ってきた両国の街は、名古屋に負けないくらい蒸し暑かった。
だけど、荒磯部屋のトタン屋根の稽古場にこもる熱気は、外の暑さとは比べものにならない。
「ごっつぁんです!」
満吉が土俵に転がり、荒い息を吐きながら砂まみれの顔を上げた。
九月場所に向けて、俺たちの稽古はすでに始まっている。三段目に上がる俺と若鳥さん、そして序二段の満吉。怪我を抱える金剛山さんは、土俵の鉄砲柱に寄りかかりながら、俺たちの動きをじっと見つめていた。
「よし、今日の『申し合い』はここまでだ。各自、テッポウと股割りをやっておけよ」
金剛山さんの声と同時に、稽古場の勝手口から、琴音ちゃんが大きなやかんを持って入ってきた。
「みんな、お疲れ様! すぐ冷たい麦茶注ぐからね」
高校を卒業して、先場所から正式に部屋のマネージャーになった琴音ちゃん。
まだ慣れない手つきだけど、手際よく俺たちの湯呑みに麦茶を注いでまわってくれる。その髪には、浅草で俺が贈った桜色のガラスのかんざしが、ちょこんと挿さっていた。本場所じゃないけど、気に入って毎日着けてくれているみたいだ。
麦茶を一気に飲み干し、喉の奥が鳴る。
手首の皮膚には、金剛山さんから譲り受けた頑丈な腕時計の重みが、まだ少し硬く残っていた。
「おー、みんなしっかり汗かいてるな」
そこへ、くたびれたTシャツ姿の親方が、サンダルをパタパタ鳴らしながら稽古場に下りてきた。
片手にはいつもの湯呑みを持っている。
親方はズズッと不作法にお茶をすすると、ふう、と息を吐いて俺たちを見回した。
「おい、お前ら。明日から出稽古に行くぞ」
「えっ、出稽古ですか?」
若鳥さんが、まわしに挟んだ手拭いで汗を拭きながら聞き返した。
小さなうちの部屋にとって、出稽古は珍しい。
「ああ。場所は、山鳴部屋だ。明日の朝、遅れずに行くからな」
親方が何気なく口にしたその名前に、稽古場が一瞬で静まり返った。
「え……山鳴部屋って、あの大関の雷電関がいる、あの山鳴部屋ですか!?」
満吉が湯呑みを落としそうになりながら声を裏返した。
若鳥さんも目を見開いている。
「親方、冗談だろ? あそこは関取が何人もいる超名門だぞ。うちみたいな4人しかいない弱小が、いきなり行って相手にしてもらえるわけが……」
「ガタガタ騒ぐな。ちゃんと話は通してある」
親方は気恥ずかしそうに人差し指で鼻の頭をこすると、残ったお茶を飲み干した。
「あそこの親方は俺の現役時代の先輩でな。昨日、ちょっと飯食いながらお願いしてきたんだ。うちの力士たちを一度大きな部屋の稽古場で揉んでやってくれ、ってな」
親方はそれだけ言うと、「琴音ちゃん、ちゃんこの準備手伝え」とさっさと母屋へ戻っていった。
俺は親方の後ろ姿を見つめていた。
普段は頼りなさそうに酒ばかり飲んでいる親方だ。だけど、関取が何十人もいるような大部屋の親方のところへ、わざわざ頭を下げに、たった一人で行ってくれたのだ。俺たちに、少しでも強い奴らの空気を吸わせるために。
「……親方、凄いな」
若鳥さんが、ぽつりと呟いた。
琴音ちゃんも、嬉しそうに、でも少し引き締まった顔で俺を見つめている。
俺は左手の手首をそっと抑えた。
親方が泥をかぶるようにして作ってくれた、初めてのチャンスだ。絶対に無駄にはできない。
「轟、明日、ビビるなよ」
金剛山さんが、俺の肩をバシッと叩いた。
「……はい」
俺は低く応えた。
腹の底から、静かに闘志が湧いてくるのが分かった。
明日、初めて外の世界の「本物」と肌を合わせる。
(九月場所編第1話・了)
登場する人物名や部屋名はフィクションです。現実とは関係ありません。




