二十万円の帰路と、約束
名古屋場所が終わり、翌日の昼。
荒磯部屋の一行は、東京へと戻る東海道新幹線の車内にいた。
窓の外を流れる夏雲を眺めながら、俺の右手には、昨日手渡されたばかりの賞金袋があった。
中身は新札で20万円。序二段優勝の褒賞金だ。
「おい轟、またそれじっと見てんのかよ」
通路を挟んだ隣の席で、若鳥さんが駅弁をもぐもぐ口を動かしながら言った。
「五月場所の時は10万だったろ? 今回は20万だ。倍だぞ、倍。今度こそスニーカーくらい買い換えろよ。お前のその靴、底がすり減ってただのゴム板になってんじゃねえか」
満吉も前の座席から振り返って「そうですよ! 20万あれば何でも買えますよ!」と目を輝かせている。
俺は自分の財布を開き、その中から2万円を抜き出した。そして、それを若鳥さんと満吉の前にそっと差し出した。
「……若鳥さん、満吉。これ、大須の味噌カツの『お返し』です。あの時、若鳥さんに大きな出費をさせてしまったので」
一瞬、二人がきょとんとした。
「ぶふっ……! お前、まだあの時のこと気にしてたのかよ!」
若鳥さんが吹き出し、差し出された1万円札を見て頭を掻いた。
「バカ野郎、先輩が後輩に奢ったもんだ。返す必要なんてねえよ。なぁ、満吉?」
「いや、僕は貰っときます! 轟の初優勝の縁起物ですし!」
満吉がちゃっかり1万円を掠め取ると、若鳥さんも「あ、ずるいぞ満吉! じゃあ俺も貰う!」と結局笑って受け取った。
「轟、ちょっといいか」
不意に、斜め前の席から、少し低い声がした。
見ると、首にまだ治療用の湿布を貼った金剛山さんが、通路越しに俺を見ていた。御剣との死闘の傷は、まだ完全には癒えていない。
金剛山さんは自分のポケットから、小さな、しかしずっしりとした重みのありそうな黒い箱を取り出すと、俺の膝の上にぽんと置いた。
「金剛山さん、これは……?」
「俺からの、優勝祝いだ。タニマチの社長から昔貰った、ちょっといい腕時計だよ。俺には上等すぎるし、お前は物欲がないから時計一つ持ってないだろ。三段目に上がるんだ。男なら、一つくらい本物を持っておけ」
箱を開けると、頑丈なステンレス製の、無骨だが美しいクロノグラフが鈍い光を放っていた。196センチの俺の太い手首にも、しっかりと馴染みそうな、大きくて重い時計だった。
「……ありがとうございます。大切にします」
俺は低く呟き、その時計をすぐに左手首に嵌めた。
ずっしりとした金属の重みが、皮膚を通して腕に伝わってくる。喋らないが、俺は心の中でその時計の秒針の音を聞いていた。時間は確実に進んでいる。御剣のいる幕下まで、あと一歩。
残りの18万円が入った財布を胸に、俺は新幹線の席で、東京に戻ったら「もう一つ、絶対にしなければならない恩返し」のことを考えていた。
両国に戻って数日後。
俺と琴音さんは、浅草の賑やかな街並みを歩いていた。
名古屋の猛暑の中、毎日冷たいものを差し入れてくれたり、泥臭い俺たちの体調管理を裏で完璧に支え続けてくれた琴音さん。そのお礼にと、残りの賞金から「何か好きなものを奢らせてください」と不器用に切り出した結果、この二人きりの休日が実現した。
196センチ、132キロの俺が隣を歩くとやはり目立ちすぎる。すれ違う観光客が、一斉に俺を二度見していく。
「ふふ、やっぱり轟と歩くと、ボディガードを連れてるみたいでちょっと緊張しちゃうね」
琴音さんはいつもより少し大人っぽい私服姿で、楽しそうに俺を見上げた。
「……すみません、目立って」
「謝ることないよ! 誇らしいくらいだもん。ほら、まずはあそこ行こう!」
琴音さんが指さしたのは、老舗の甘味処だった。
店に入ると、案の定、俺の身体に対して椅子やテーブルが小さすぎて、縮こまるようにして座る羽目になった。琴音さんはそれを見て「縮こまった大熊みたい」とクスクス笑っている。
運ばれてきたのは、贅沢にフルーツと白玉が盛られた、特大の『クリームあんみつ』。俺は大きなスプーンを不器用に扱いながら、一口食べる。
「……美味いです」
「でしょ? ここのあんみつ、ずっと食べてみたかったんだよね。あ、轟、口の横にクリームついてるよ」
琴音さんが自然にハンカチを伸ばして、俺の頬をちょんと拭く。
いつも部屋で泥にまみれている俺も、この時ばかりは、優しいお姉さんに甘やかされているような、少し照れくさい、でも心地よい空気を感じていた。
店を出た後、俺は琴音さんに、以前から目を付けていた、ちょっといい「かんざし(髪飾り)」の店へと案内した。
「え、これ私に……?」
「はい。琴音さんはいつも、部屋のために髪を後ろで結んで動いているので。それが似合うかと思って」
俺が不器用に差し出したのは、上品な桜色のガラス細工があしらわれたかんざしだった。20万円の賞金で、これが一番買いたかったものだった。
琴音さんは一瞬、驚いたように目を見張った。それから、本当に嬉しそうに、顔をパッと輝かせてそれを両手で受け取った。
「ありがとう、轟。……うん、決めた! これ、九月場所の初日に着けていくね。だから轟、三段目に上がっても、絶対に優勝してね?」
「……はい。約束します」
俺は無言のまま、しかし力強く頷いた。
残った賞金は、この後、いつも通り実家のポストに何も言わずに放り込むつもりだ。
夕暮れ時、吾妻橋から隅田川を眺める。
川面を渡る風が、琴音さんの髪を優しく揺らしていた。
左手首には、金剛山さんから譲り受けた頑丈な腕時計。
親方のため、部屋のため。そして、こうして自分を心から応援してくれる人たちのために、俺は負けるわけにはいかない。
夏雲がゆっくりと流れる空の下、俺たちの戦いは次なるステージ『三段目』へ。
御剣のいる場所まで、あと一歩。
俺の無敗の進撃は、静かな約束と共に、ここからさらに加速する。
(名古屋場所編第10話・完)
琴音は、轟と同い年、高校を卒業して荒磯部屋の正式なマネージャーになったということで進めていきます。




