五勝二敗と全勝
七月場所、千秋楽。
新しくなった名古屋アリーナの館内は、朝九時台から異様な熱気に包まれていた。
「東――、轟――。西――、若潮――」
序二段の全勝優勝を懸けた、俺の千秋楽の土俵。
呼び出されて土俵へ上がると、館内からはすでに大きな拍手が沸き起こっていた。対戦相手は地元の応援を背負った元気のいい若手だったが、俺はいつも通り、無言のまま表情を一切消した。
剥き出しになった鋭い両眼で、相手の胸元をただ冷徹に見据える。
「はっけよい!」
軍配が返った瞬間、俺の身体は弾丸のように前へ飛んでいた。
ドガァンっ!!!!!
立ち合いの一撃で、相手の顎が完全に跳ね上がった。
相手が横へ逃げようとする前に、196センチの長い両腕でその分厚い胸板をガシッとおっつけ、上体を起こす。相手は俺の132キロの圧倒的な質量に上から完全にプレスされ、息を吸うことさえできていない。
ただ、冷徹に、圧倒的なパワーの差だけで、俺は相手をそのまま土俵の外へと寄り切った。
ドンっ。
「……寄り切り、轟」
あまりの秒殺、あまりの圧倒的な強さに、観客は歓声を上げるのも忘れて戦慄していた。
これで、7戦全勝。
五月場所に続き、2場所連続の全勝優勝。
俺は淡々と一礼し、土俵を降りた。花道の奥で、満吉が「2場所連続全勝優勝だッ!」と大興奮で飛びついてきて、若鳥さんも「大したもんだよ!」と頭をくしゃくしゃに撫で回してきた。
だが、俺たちの千秋楽は、ここでは終わらなかった。
――午前十一時過ぎ。
自分の取組を終え、風呂を浴びて荒磯部屋の浴衣に着替えた俺は、花道の奥の薄暗いスペースにじっと佇んでいた。夕方に行われる各段優勝の表彰式を待つ間、どうしても目が離せない、これから始まる幕下の一番を見届けるために。
土俵の上には、西の幕下・金剛山。
東の土俵には――御剣凱。
今場所の御剣は、プロの厚い壁にぶつかり、ここまで4勝2敗。もう1敗もできない極限状態の御剣からは、泥を這ってでも勝ちをもぎ取ろうとする、剥き出しの執念がギラギラと放たれていた。
(金剛山さん……)
俺は花道の奥から、祈るような気持ちで荒磯部屋の大黒柱の背中を見つめた。
「はっけよい――、のこった!」
ドンっ!!!!!
重い、乾いた衝撃音が新アリーナに響く。
金剛山さんは鋭いおっつけで御剣の得意な右差しを完全に封じにかかった。毎日その胸を借りてきた俺には、その重さが誰よりも分かっている。勝てる、そう思った瞬間だった。
「ぬううりゃああかっ!!」
御剣の執念が、金剛山さんの技術を上回った。
右差しを拒まれた御剣は、なりふり構わず頭を金剛山さんの胸にめり込ませ、泥臭く前ミツを掴みとった。エリートのプライドを捨てた、死に物狂いのがぶり寄り。
一歩、二歩。金剛山さんの足が、ついに勝負俵を割った。
「……寄り切り、御剣」
館内が湧く。
御剣は5勝2敗。苦しみ抜いて、泥にまみれて掴み取った勝ち越しだ。
勝ち名残りを受け、土俵を降りて花道へと引き揚げてくる御剣。
薄暗い闇の中で直立不動で待つ俺の目の前を、御剣が通り過ぎる。その瞬間、御剣の切れ長の瞳が、一瞬だけ俺を強烈に射抜いた。
その目は、朝一番に全勝優勝を決めた俺に対して、「見たか、これが幕下の力だ。お前はここまで来れるか」と、無言で冷酷に言い放っていた。
続いて花道に戻ってきた金剛山さんは、肩を小さく震わせ、悔しさに唇を噛み締めていた。俺は無言で歩み寄り、金剛山さんに手拭いを差し出した。
「……すまん、轟。お前がせっかく優勝したってのに、情けない姿を見せた」
「……いいえ」
俺は低く、地鳴りのような声で応えた。
表情は変えない。だが、俺の胸の奥で、黒い怒りの炎が静かに燃え立っていた。
自分が全勝優勝した嬉しさなんて、一瞬で吹き飛んでいた。
俺の愛する荒磯部屋の、大切な兄弟子を目の前で傷つけた代償は、いつか必ずその首を掴んで支払わせる。
御剣は5勝2敗で足踏み。俺は無敗のまま、次はいよいよ『三段目』へ上がる。
その背中を完全に射程圏内に捉えたまま、俺たちの名古屋場所の本戦は、静かな闘志と共に幕を閉じた。
(名古屋場所編第7話・了)




