表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/68

黒い衝動

名古屋場所も終盤を迎え、新アリーナの館内には、朝九時台であっても明らかに「轟」を目当てにした観客の姿が増えるようになっていた。


黒まわし、髪もまだ結えない。

にもかかわらず、196センチ、132キロの体躯が無言で花道を歩いてくるだけで、客席からはごくりと息を呑むような、独特の緊張感が伝わってくる。


「轟、これで5連勝。今日も勝てば6戦全勝だ」


支度部屋の隅で、満吉がいつも通り熱心にノートをめくりながら声をかけてくる。隣では、まわしを締め終えた若鳥さんが、俺の背中にパチンと気合いの張り手を一発入れた。


「おい轟。今日の一番、ちょっと花道の奥がピリついてるぞ」


「……ピリついてる?」


俺は低く、ボソッと聞き返した。


「ああ。昼前に取組を控えてるはずの御剣のやつが、もうまわしを締めて花道に立ってやがる。土俵へ向かうお前を、直にその目で見届けるつもりらしいぜ。あいつ、今場所は4勝2敗と幕下の壁に苦戦しててピリついてるんだ。お前が一度も負けずに後ろから迫ってくるのが、相当プレッシャーなんだろうぜ」


俺は無言のまま、自分の大きな手のひらを見つめた。


(御剣が、俺を見に来ている――)


胸の奥の、一番深いところがドクンと波打った。

アマ横綱の栄光を引っ提げてプロになり、俺のことなど泥臭いと見下していた天才。その御剣が、まだ自分の出番まで数時間もあるというのに、わざわざ薄暗い花道の奥に足を運び、俺の進撃を無視できずにいる。


「……行ってきます」


俺は静かに立ち上がり、額を全開にした無骨な顔のまま、花道へと向かった。


最新アリーナの冷気が吹き抜ける、スポットライトの手前の暗がり。

そこへと歩みを進めると、若鳥さんの言葉通り、壁に背を預けてじっと土俵を見つめる御剣凱の姿があった。

まわし姿に大判のバスタオルを羽織ったその身体は、いつでも土俵に上がれるほど熱を帯びている。だが、その切れ長の瞳は、鋭い焦燥感を孕んで、暗がりからこれから土俵に上がる俺の黒まわしを冷たく射抜いていた。


俺は歩みを止めず、御剣の視線を正面から受け止めた。

視線を交わすのは、すれ違う一瞬。

今ここで喋る必要はない。圧倒的な相撲を見せつける、それだけだ。俺は御剣の横を通り抜け、最新の照明に照らされた光の中へと踏み出した。


「東――、轟――。西――、雷鳳――」


呼出しの声に応え、のっしのっしと土俵へ上がる。

対戦相手の雷鳳らいおうは、185センチ、125キロ。序二段のなかでも上位のパワーを誇る生きのいい若手だ。ここまで5勝0敗、俺と同じく全勝街道を突き進んできた、今場所の優勝候補の一人。


「はっけよい!」の直前、雷鳳は「うおおおっ!」と大声を上げ、自らの胸を激しく叩いて気合いを入れた。新アリーナの静寂を破る、凄まじい闘志。


だが、俺はいつも通り、無言のまま表情を一切消した。

剥き出しになった鋭い両眼で、雷鳳の分厚い胸板をただじっと、冷徹に見据える。


張り詰めた空気の中、軍配が鮮やかに返った。


「――はっけよい!」


「ぬんっ!!」


ドンっ!!!!!!


お互いの130キロ近い質量が、土俵の真ん中で正面から激突した。

雷鳳の突進の威力は、今場所のこれまでの相手とは比べ物にならないほど重かった。だが、俺の足腰は一歩も退かない。宿舎のあの過酷な暑さの中で、毎日金剛山さんの岩のような胸にぶつかり続けてきたんだ。この程度の圧力で、俺の身体が下がるはずがない。


「らあああっ!」


雷鳳が声を荒らげ、強烈な突き押しを連打してくる。

俺は無言のまま、その突きを長い両腕で内側からガシッとおっつけ、雷鳳の動きを完全に封殺した。

懐に潜り込ませず、横への変化も許さない。196センチの絶対的なリーチと質量が、雷鳳の突進を上から包み込むように圧殺していく。


(終わりだ)


俺の眼が、不敵に据わる。

そのおっつけの型を崩さぬまま、俺は132キロの全体重を前へと爆発させ、圧倒的な圧力で雷鳳の身体を正面から一気に土俵の外へと押し出した。雷鳳の巨体が、抵抗する間もなく勝負俵の外へとドサリと崩れ落ちる。


「……押し出し、轟」


行司の軍配が、俺の方を指してピシッと止まった。


勝った。


これで6戦全勝。


館内から沸き起こる大歓声の中、俺は淡々と一礼し、土俵を降りた。

砂を払って花道へと戻ると、外光の遮られた暗がりの中に、先ほどと変わらぬ位置に佇む御剣の影があった。


俺はのっしのっしと歩み寄り、額を全開にした顔で、すれ違いざまに御剣を真っ直ぐに見下ろした。

言葉は交わさない。

だが、俺の剥き出しの両眼は、これから数時間後に自分の取組を控える御剣の胸元へ、静かに、しかし確かに楔を打ち込んでいた。


(御剣。俺は一度も負けずに、お前のすぐ後ろまで来たぞ)


すれ違う瞬間、御剣が悔しそうに小さく歯を食いしばり、バスタオルの下で拳を強く握りしめたのを、俺の視界の端が確かに捉えていた。


花道のさらに奥へ戻ると、若鳥さんが「へっ、完全に格の違いを見せつけたな」と不敵に笑い、満吉が「これで6連勝ですよ!」と目を輝かせた。


名古屋場所、残すは千秋楽。あと一番勝てば、序二段全勝優勝。

俺の「完全無敗」の神話は、まだ誰にも止められない。


(名古屋場所編第6話・了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ