粘りつく泥
新しい名古屋アリーナの冷房は、日を追うごとにありがたみが身に染みるようになっていた。
宿舎に戻れば、相変わらずエアコンの効かない部屋で、若鳥さんや満吉と汗だくになってアイスを齧る日常。その極端な往復が、むしろ俺の身体のオンとオフを鋭く切り替えさせていた。
「轟、今日で4戦目だな。ここまで3連勝、内容も全部秒殺。いい流れだ」
花道の奥で、満吉がノートをめくりながら俺に視線を送る。
「だけど、今日の相手はちょっと毛色が違うぞ。西の『泥ノ海』。プロ10年目の大ベテランだ。175センチ、110キロ。体はお前より二回りも小さいけど、とにかく相撲がしつこい。相手の腕を抱え込んで動きを止め、ずるずると時間をかけてスタミナを奪う、まさに『泥仕合』を生業にしてきた男だ。乗せられるなよ」
「……分かっている」
俺は低く呟き、額の汗を拭った。
プロの土俵には、一瞬の爆発力を持つ若手だけでなく、そうやって砂にまみれて生き残ってきた海千山千のベテランがいる。五月場所の千秋楽で戦った大岩郷さんとはまた違う、執念の「ずるさ」を持った男だ。
「東――、轟――。西――、泥ノ海――」
呼出しの声に、俺はのっしのっしと土俵へ上がった。
向かい合う泥ノ海は、全身が小柄ながらも岩肌のようにゴツゴツとした筋肉で覆われていた。その目は俺の196センチの巨体を見上げても全く動じず、むしろ「どうやってこの大物を引きずり下ろしてやろうか」という、ねっとりとした底の知れない闘志を孕んでいた。
二人が仕切り線に拳を下ろす。
新アリーナの冷たい風が頭上を吹き抜ける中、緊迫の静寂。
行司の軍配が返った。
「――はっけよい!」
「ぬんっ!!」
立ち合い、俺は正面から強烈なぶちかましを放った。
だが、泥ノ海はそれを真っ向から受ける直前、ふっと上体を信じられない角度で低く丸め、俺の突進の衝撃をいなした。
ドン、という鈍い音の後、気づけば泥ノ海は俺の懐深くにもぐり込み、俺の右腕の下から頭を入れ、俺の左腕を自分の両腕でガシッと抱え込んでいた。
(――捕まったか)
俺の腕を強引にたぐり込んで引きずり下ろす、不気味な形。
泥ノ海は110キロの自重を全て俺の左腕にかけ、じわじわと下へ引きずり込もうとする。強引に振りほどこうとすれば、逆に腕の関節を極められるか、体勢を崩されて引き落とされる。
「おおっ、泥ノ海、得意の形に入ったぞ!」
「轟、動きが止まった!」
客席から、ベテランの職人技を称えるようなどよめきが起こる。
泥ノ海は俺の左腕にしがみついたまま、びくとも動かない。
ここから何分でもこの体勢を維持し、俺の巨体が自重と焦りで疲弊していくのを待つつもりなのだ。まさに『泥ノ海』の四股名通り、底なしの沼に引きずり込むような相撲。
だが、泥ノ海の耳元で、俺はフッと短く、冷徹に鼻を鳴らした。
喋らない。だが、俺の剥き出しの両眼は、焦るどころか、その泥沼の底をじっと見据えていた。
(時間をかけるつもりか。……なら、付き合ってやる)
俺は強引に腕を抜くのをやめ、逆に右足と左足を一歩ずつ、土俵の砂に深く、深く埋め込むように腰を割った。
宿舎のあの猛暑の中、幕下の金剛山さんの岩のような胸に、毎日何十本、何百本とぶつかって磨き上げてきたこの下半身だ。
圧倒的な質量が、土俵のド真ん中で完全に「静止」する。
びくともしない。泥ノ海がどれだけ下から揺さぶろうが、俺の肉体は新アリーナの床に埋め込まれた鉄柱のように、一ミリのブレも起こさなかった。
1分、2分――。最初は静まり返っていた朝の館内が、異様な膠着状態にじわじわとどよめき始め、張り詰めた緊張感が客席を支配していく。
疲弊していくのは、仕掛けたはずの泥ノ海の方だった。いつもなら焦った若手が墓穴を掘るはずなのに、この196センチの怪物は表情一つ変えないまま、ただひたすらに重く、動かない。俺の圧倒的な質量をコントロールし続けるために、ベテランの太腿が限界を迎え、小刻みに震え始める。
(――今だ)
泥ノ海の圧力がほんの一瞬、緩んだ瞬間。
俺は無言のまま、抱え込まれていた左腕に、全身の力を爆発させて一気に上へと跳ね上げた。
「が、はっ!?」
パワーの次元が違った。132キロの怪力が下から突き上げられ、泥ノ海の小さな身体が強引に上へと弾き起こされる。
懐が完全に空いた。
俺は据わった眼のまま、空いた大岩のような右手で、泥ノ海の胸板を真っ直ぐに、強烈に押し込んだ。
ドムっ!!!!
「……押し出し、轟」
泥ノ海の身体は、文字通り土俵の外へと一直線に押し出され、勝負俵を跨いで崩れ落ちた。
勝った。
これで4戦全勝。泥沼の策を、ただ「動かざる重さ」だけで完封してみせた。
(名古屋場所編第5話・了)




