新アリーナの冷気
名古屋場所(七月場所)は、長年使われていた愛知県体育館から、**2025年に開業したばかりの最新鋭の超巨大アリーナ(IGアリーナ)**へと会場が移転したばかりです。
七月場所、初日。
「うわ……綺麗だな。それに、めちゃくちゃ涼しい……」
花道の奥で、同期の満吉が新しい館内を見上げて、感嘆の声を漏らした。
新しくなった名古屋の巨大アリーナ。
一歩足を踏み入れると、外のあのじっとりとした殺人的な酷暑が嘘のように消え去り、最新鋭の空調設備から送り出される心地よい冷気が、館内を隅々まで満たしていた。
朝九時過ぎの土俵。客席はまだまばらだが、真新しいコンクリートの匂いと、天井の巨大な最新照明に照らされた土俵の砂が、どこか近未来的でピリッとした緊張感を漂わせている。すり鉢状に広がるモダンな黒い客席は、まるで海外の格闘技会場のようだ。
「轟、油断するなよ」
俺のすぐ後ろで、付き添いとして控えている若鳥さんが、低い声で鋭く言った。
「外は猛暑、中は冷房ガンガンだ。この急激な温度差で、普通の奴は自覚がないまま体が冷えて、立ち合いに思うように動かなくなる。新アリーナの落とし穴だ。しっかり体を温めておけよ」
「……はい」
俺は無言で頷き、自分の分厚い太腿をパン、パンと強く叩いた。
若鳥さんに奢ってもらった味噌カツのエネルギーは、すでに俺の血肉となり、体内でゴトゴトと熱を帯びている。冷気など関係ない。俺の下半身は、宿舎のあの蒸し風呂のような土俵で、毎朝金剛山さんの胸を借りて徹底的にいじめ抜いてきたのだ。
「東――、轟――。西――、海嵐――」
呼出しの声が、最新アリーナの音響システムに乗って、クリアに館内へ響き渡る。
俺はのっしのっしと、新しく、しかし変わらない命のやり取りの場――土俵へと上がった。
番付は『序二段』。
対戦相手の海嵐は、プロ4年目の中堅だ。体格は180センチ、120キロ。轟よりは一回り小さいが、筋骨隆々の引き締まった体躯をしている。あいつは地方場所の環境に慣れているのか、この冷気の中でも、すでに肌にねっとりとした脂汗を浮かべ、獲物を狙う猛禽のような鋭い目で俺を睨みつけていた。
二人が仕切り線に歩み寄り、腰を下ろす。
俺はいつも通り、無言のまま表情を消した。
剥き出しになった鋭い両眼で、海嵐の出足の角度をじっとロックオンする。
冷房の風が、静かに俺の全開になった額を撫でていく。
静寂の中、行司の軍配が鮮やかに返った。
「――はっけよい!」
「ぬんっ!!」
立ち合いの一瞬、海嵐は正面からぶつかると見せかけ、右へ鋭く動く「変化」を見せた。五月場所の相手よりも遥かに速く、洗練されたプロの横の動き。俺の132キロの突進をかわし、死角から俺の回しを掴みにかかる算段だ。
客席から「あっと、変わった!」と短い声が上がる。
だが、俺の足腰は、新アリーナの冷気に微塵も狂わされてはいなかった。
(――遅い)
俺は突進の勢いのまま、強靭な左足一本で土俵の砂をガシッと完璧に捉え、その場で巨体を強引にピボットさせた。金剛山さんとの稽古で培った、懐に入らせないための執念の泥臭い修正力。
「なっ……!?」
回り込もうとした海嵐の目の前に、かわしたはずの196センチの巨大な肉壁が、瞬時に、寸分の狂いもなく再び出現した。
海嵐の顔が、驚愕で引きつる。
俺は無言のまま、正面を向いた海嵐の胸板めがけて、丸太のような突っ張りを一閃、叩き込んだ。
ドゴォンっ!!!!
重戦車が激突するような一撃が、海嵐の胸を正確に撃ち抜く。
海嵐の120キロの身体は、まるで木の葉のように宙に浮き、そのまま後ろ向きに勝負俵を飛び越えて、土俵下にドサリと叩きつけられた。
「……突き倒し、轟」
行司の軍配が、躊躇なく俺の方を指してピシッと止まる。
あっという間の、秒殺だった。
最新アリーナの静かな空間に、「おいおい、何だあの新人は……」「化け物かよ」という、五月場所の時よりもさらに深い戦慄のざわめきが広がっていく。
俺は淡々と一礼し、土俵を降りた。
息一つ乱れていない。冷気のおかげで、汗すらほとんどかいていなかった。
花道の奥へ戻ると、若鳥さんが「へっ、余計な心配だったな」と不敵に笑い、満吉が「最高の発進ですよ!」と拳を突き出してきた。
序二段、まずは白星発進。
俺の「完全無敗」の進撃は、この新しい土俵でも誰にも止められない。
(名古屋場所編第4話・了)




