名古屋の熱帯夜
「あちぃ……。マジで溶ける……。おい満吉、ちょっとは風をこっちに回せよ」
愛知県にある、荒磯部屋の名古屋場所宿舎。
夜の大部屋で、三段目の若鳥さんがパンツ一丁で行き倒れたように畳に転がっていた。
名古屋の夏は、東京とはまた違う、まとわりつくような暴力的な湿気と暑さがある。
おまけに、小さな古寺の離れを借り受けた簡易的な宿舎とあって、備え付けの古いエアコンは「ガタガタ」と不吉な重低音を立てるばかりで、室内の生ぬるい空気をただかき回しているだけだった。
「嫌ですよ。僕だってデカい轟の隣でサウナに入ってるみたいなんですから。若鳥さん、少しは轟を見習ってください。あいつ、さっきから微動だにしないで涼しい顔してるじゃないですか」
同期の満吉が、家庭用の小さな扇風機を抱え込むようにしながら言った。
満吉の視線の先――部屋の隅で、俺は壁に背を預けて静かに座っていた。
「いや……満吉、よく見ろ。轟のやつ、涼しい顔してるんじゃなくて、暑すぎて魂が抜けてるだけだ!」
若鳥さんの指摘通り、俺は無言のまま、ただじっと畳の一点を見つめていた。
五月場所の時よりさらに筋肉が詰まって重くなったこの肉体は、いわば巨大な熱の塊だ。基礎代謝が高すぎるせいか、じっとしているだけでも、体の中から熱がどんどん湧き上がってくる。
(暑い……。砂浜で四股を踏んでいるみたいだ)
口に出すと余計に暑くなるから喋らない。だが、額からは大粒の汗が次から次へと流れ落ち、剥き出しの太腿を濡らしていた。
ガララッ。
障子戸が開くと、アイスの冷気と共に聞き慣れた声が響いた。
「はーい、みんな生きてる? 差し入れのアイスキャンディー持ってきたよ!」
救世主のように現れたのは、団扇をパタパタと仰ぎながら入ってきた琴音さんだった。
お盆の上には、近所のスーパーで買ってきてくれたというソーダ味のアイスキャンディーが並んでいる。
「琴音さん!! 神!!」
若鳥さんと満吉が弾かれたように起き上がり、お盆からアイスをひったくる。
琴音さんは苦笑しながら、壁際で完全にフリーズしている俺の前に歩み寄り、一本のアイスを手渡してくれた。
「はい、轟の分。一番大きいやつ選んできたからね。……って、大丈夫? 本当に魂が抜けてるみたいだけど」
「……ありがとうございます、琴音さん。大丈夫です」
俺は低く呟き、アイスの袋を破って口に含んだ。
ひんやりとした冷気と爽やかな甘さが、熱を持った口内に広がっていく。それだけで、少しだけ頭がシャキッとするような気がした。
「ガハハ! 轟のやつ、この巨体だからな。名古屋の夏は一番こたえるだろ」
ビール缶を片手に、親方がひょっこりと部屋を覗き込んできた。その後ろには、すでに明日の稽古の手ぬぐいを首に巻いた、幕下の金剛山さんの姿もある。この狭い宿舎に全員が集まると、それだけで部屋の密度が限界になった。
「親方、轟は序ノ口を全勝した男ですよ。暑さくらいでへばりませんって」
若鳥さんがアイスを齧りながら言うと、親方はニヤリと不敵に笑った。
「当たり前だ。だが、明日からの朝稽古は容赦せんぞ。名古屋の暑さはな、ただ体力を奪うだけじゃない。集中力を削ぎ、足元を狂わせる。序二段に上がれば、泥臭く勝ちをもぎ取りにくる曲者ばかりだ。一瞬の油断が命取りになるぞ」
親方の言葉に、大広間の一角が一気にピリッとした空気に包まれる。
金剛山さんが、静かな、しかし重みのある目で俺を見つめた。
「轟、明日の朝は俺が一番に胸を出してやる。この暑さの中で、どれだけ足腰が粘れるか試させてもらうぞ」
「……はい。お願いします」
俺はアイスの棒を口から離し、低く、ずっしりとした声で応えた。
隣で琴音さんが「もう、真面目な話はそこまで! アイスが溶けちゃうから早く食べて!」と笑って場を和ませてくれたが、俺の胸の奥では、すでに次の場所への闘志が静かに、しかし熱く燃え上がり始めていた。
翌朝、午前五時半。
本堂の裏手に作られた、荒磯部屋の特設土俵。
まだ夜が明けたばかりだというのに、空気はすでにねっとりとした蒸し風呂のようだった。日が昇れば、容赦のない蝉時雨が降るだろう。
「よし、轟! 思いきり来い!」
まわしを締め、すでに体中から湯気のような汗を吹き出させている金剛山さんが、土俵の中央でどっしりと腰を割った。幕下の意地と、プロの意地が詰まった巨大な壁だ。
「――ぬんっ!!」
俺は鼻から短く息を吐き出すと、熱気をもろともせず、132キロの質量を爆発させて土俵を蹴った。金剛山さんの胸へとぶち当たる。
ドンっ!!!!!
肉と肉が激突する凄まじい破裂音が、静かなお寺の境内に響き渡る。
金剛山さんの重い身体が数センチ下がるが、すぐに強靭な足腰で押し返してくる。上から浴びせられる圧倒的な圧力。だが、俺の足もまた、五月場所を経てさらに深く、土俵の砂を噛んでいた。親指が泥のような砂に深くめり込み、絶対に後ろへは退かない。
「そうだ! 引くな轟! 前へ出ろ!」
土俵の脇で、親方が厳しい声を張り上げる。
額から目に入りそうになる汗を、構わずそのままに。
ここから、俺のプロ2場所目、序二段の戦いが始まる。
どれだけ暑かろうが、相手がどんな相撲を取ってこようが俺のやることは変わらない。全員、正面から押し潰すだけだ。
(第3章・第2話・了)




