はじめての十万円
いよいよ名古屋場所です。
五月場所が終わり、六月。
東京の空気は、少しずつ梅雨の気配を帯びて蒸し暑くなり始めていた。
「おい、轟。お前、それどうすんだよ」
稽古終わりのちゃんこ場。
三段目の兄弟子、若鳥さんがニヤニヤしながら、俺の手元を顎で指してきた。
俺の手にあるのは、千秋楽に国技館で受け取り、親方が『最初の稼ぎだ』と現金で手渡してくれた序ノ口優勝の賞金。中身は、新札の1万円札が10枚――ちょうど10万円だ。
「どうする、とは?」
「とぼけんなよ。プロになって、自分の相撲だけで稼いだ初めての金だろ。何に使うか決めてんのかって聞いてんだ」
若鳥さんの言葉に、大鍋を混ぜていた琴音さんも「あ、私も気になる!」と嬉しそうに振り返った。テーブルの向こうでは、同期の満吉が目を輝かせ、部屋の筆頭頭である幕下の金剛山さんがビールを飲みながら静かにこちらを見ている。
親方、琴音さん、そして力士は俺を含めてたったの4人。
それが、俺の所属する荒磯部屋のすべてだ。
「……別に、欲しいものはないです」
俺は素直に答えた。
物心ついた時から、自分の身体に合う服や靴は少なかったし、物欲もあまりない。毎日、この小さくても家族のような部屋で、おいしいちゃんこを腹いっぱい食べて、四股を踏めれば、それで十分に満足だった。
「お前なぁ、少しは若者らしい物欲ってやつを持てよ。スニーカー買うとかさ、スマホ買い換えるとかあるだろ」
若鳥さんが呆れたように笑う。
俺は手元の10万円をじっと見つめ、それから、いつも通り表情を変えずにボソッと言った。
「若鳥さん、金剛山さん。今夜、稽古が終わったら、近所のコンビニに付き合ってください。満吉も」
「あ? コンビニ? そんなとこで何買うんだよ」
「……アイスです」
「は?」
俺は立ち上がり、額を全開にした無骨な顔で、部屋の数少ない兄弟子たちを見渡した。
「今場所、毎日俺のぶつかり稽古に付き合ってくれた金剛山さんと若鳥さんに、コンビニで一番高いアイスを奢ります。満吉にも。あと、琴音さんには、いつも疲労回復のちゃんこを作ってくれるから、一番高いメロンのアイス。親方には、ちゃんとお酒を買います」
一瞬、ちゃんこ場がシィンと静まり返った。
「ぶっ……! ギャハハハハ! お前、10万円の使い道がコンビニのアイスかよ!」
若鳥さんが腹を抱えて大爆笑し、満吉も「轟、お前最高だな!」と肩を叩いて沸いた。
琴音さんは一瞬きょとんとした後、嬉しくなって目がすっかり潤んでしまい、「もう、轟ったら。ありがとね、本当に楽しみにしてる」と優しく笑った。
奥にいた金剛山さんが、静かに微笑み、俺の肩をポンと叩いた。
「粋なことをするじゃないか、轟。お前の気持ち、部屋の全員が喜んで受け取るよ」
その夜、荒磯部屋の男4人と琴音さんで、近所のコンビニのアイスケースの前に並んだ。みんな「俺はこれ!」「じゃあ俺は一番高いパフェのやつ!」と、本当の兄弟のように嬉しそうに選んでいる。
俺は、自分の財布から初めて1万円札を出して、店員に手渡した。
残ったお金は、数万円。
俺は翌日の昼、散歩がてら、歩いてすぐの距離にある両国の実家のポストに、その残りの現金を封筒に入れてそっと入れてきた。
親父やお袋に手渡したら、絶対に「お前が使え」と受け取らないのが分かっていたからだ。
夕方、スマホに親父から、たった一言だけメッセージが届いた。
『親孝行、確かに受け取った。名古屋も、思いきり行ってこい』
俺は不敵に小さく笑って、スマホをポケットにしまった。
六月下旬。
荒磯部屋の一行は、東京を離れ、次なる戦いの地である名古屋へと向かう新幹線に乗っていた。
酷暑で知られる、七月・名古屋場所。
番付は『序二段』へと上がる。
新幹線の窓の外を眺めながら、俺は自分の132キロの大きな手のひらをグッと握りしめた。
相手が誰だろうと、どんなプロの技術を使ってこようと、関係ない。
俺の相撲は、前に出るだけだ。遥か先を走る御剣のいる場所へ辿り着くまで、俺の連勝は絶対に止まらない。
(名古屋場所編第1話・了)




