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両国の空の下で(親視点)

五月場所、五日目の朝。


両国の街は、まだ通勤の波が引ききったばかりの、穏やかな空気に包まれていた。


国技館から歩いてすぐの静かな路地。

大河原家の親父は、いつもの年季の入ったジャンパーのポケットに手を突っ込み、ぶっきらぼうな足取りで歩いていた。その半歩後ろを、お袋が小走りでついていく。


「お父さん、本当に黙って見に行っていいの? 轟に一言くらい『行くよ』って連絡すればよかったのに」


「あいつに余計な気を遣わせる必要はねえ。それに、ただの序ノ口の相撲だ。朝飯の散歩がてら、ふらっと覗きに行くだけだろ」


親父はそう口を尖らせたが、その手にはしっかりと、当日券の入場券が二枚握られていた。

物心ついた時から、轟の身体は異常なほど大きかった。

近所の子供たちと遊べば、悪気はないのに突き飛ばして怪我をさせてしまう。

学校の机や椅子はいつも窮屈そうで、どこへ行っても「デカすぎる」と好奇の目に晒されてきた。


親として、その頑丈すぎる身体をどこか申し訳なく思い、のびのびと生きさせてやれない両国の街を、窮屈に感じたこともあった。


その息子が、荒磯部屋に入り、プロの力士になったという。


午前九時過ぎの国技館。


館内に入ると、夕方のあのテレビで見るような大歓声はどこにもなかった。

客席はまばらで、シーンと静まり返っている。土俵の上では、まだ体つきの細い若い新弟子たちが、泥にまみれて相撲を取っていた。


親父とお袋は、向こう正面のひな壇の席に、ぽつんと並んで腰を下ろした。


「……静かなもんだな」


親父が腕を組み、土俵をじっと見つめる。

やがて、呼出しの男が、声を張り上げてその名を呼んだ。


「東――、轟――。西――、大岩」


花道の奥から、のっしのっしと巨大な影が現れた。


「あ……! お父さん、轟よ、轟!」


お袋が思わず声を上げ、口元を両手で覆った。


そこにいたのは、家でいつも窮屈そうに丸くなっていた息子ではなかった。


髪を短く後ろに撫で付け、額を全開にした無骨な顔。数ヶ月会わないうちに、胸板も太腿もさらに分厚くなり、立派な力士となった、堂々たる姿がそこにあった。


「……デカくなったな」


親父の喉の奥から、乾いた声が漏れた。

かつては周囲の邪魔にならないよう、小さくなって生きていた我が子が、今はその規格外の身体を真っ黒いまわしで包み、堂々と土俵の中央へと歩いていく。


轟は客席を見ようとはしなかった。

親が来ていることすら知らないはずだ。


だが、土俵に上がった息子が立ち会いで手をついた瞬間、親父は肌が粟立つような錯覚を覚えた。


(あぁ、あの土俵の上だけは、あいつにとって一番正しい場所なんだ)


「はっけよいっ!」


行司の軍配が返った瞬間。

轟の体が、爆発的な勢いで前へ突進した。


ドンっ!!!!


静まり返った館内に、凄まじい肉体の衝突音が銃声のように響き渡る。

相手の力士が、まるで軽自動車に跳ね飛ばされたかのように、一瞬で勝負俵の外へと吹っ飛んでいくのが見えた。


あっという間の、秒殺だった。


「送り出し、轟」


軍配が轟を指す。

まばらな客席から「おお……」「なんだあのデカいのは」と、静かな戦慄のざわめきが広がる中、息子はただ淡々と一礼し、息一つ乱さずに土俵を降りていった。


勝ち誇るでもなく、威張るでもない。

ただ、自分の圧倒的な力を当然のように振るう、その背中は、親の目から見ても、恐ろしいほどに格好良かった。


「……行ったな」


親父はゆっくりと立ち上がり、ジャンパーのポケットに再び手を突っ込んだ。


「えっ、お父さん、もう帰るの? 声くらいかけていけば……」


「バカ言え。あいつはもう、俺たちの手の届かない場所で、自分の足で立ってるんだ。邪魔しちゃ悪いだろ。さあ、帰って飯にするぞ」


親父はそう言って、一度も振り返らずに歩き出した。


だが、その口元には、かつて我が子の身体を心配していた頃には決して見せなかった、不敵で、誇らしげな笑みがハッキリと浮かんでいた。


(第16話・了)

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