低空の狩人
五月場所も終盤戦。
俺の戦績は、ここまで危なげなく白星を重ねて「5戦全勝」。
朝の国技館でも、俺が花道から現れると、客席からは明らかにプロとしての期待と戦慄を含んだざわめきが起こるようになっていた。
「轟、次の相手、マジでヤバいぞ。今場所一番の正念場だ」
支度部屋の片隅で、満吉がいつも以上に必死な顔で、手元のノートを俺に見せてきた。
「西の『飛猿』。あいつ、高校時代にレスリングの全国王者になって、そのまま相撲界に入ってきたんだ。体重は90キロそこそこしかないけど、スピードが異次元。前の5試合、全部相手の足を取るか、懐にもぐり込んでの秒殺だ。お前みたいな巨体は大好物のはずだぜ」
「レスリングの王者……。面白そうだな」
俺はタオルで汗を拭いながら、低く呟いた。
満吉の言う通り、プロの土俵には色んな怪物がいる。
132キロにビルドアップした俺の肉体を、そのスピードでどう料理しにくるのか、想像するだけで胸の奥がジリジリと熱くなる。
「東、轟――。西、飛猿――」
呼出しの声に応え、俺はのっしのっしと土俵へ上がった。土俵下には、取組の始まりを待ちわびた観客がちらほらと見える。
向かい合う飛猿は、確かに細かった。だが、全身が鋼のバネのように引き締まっており、その眼光は、まるで巨大な獲物を狙う猟犬のように鋭くギラついていた。
二人が土俵の中央へ歩み寄り、腰を下ろす。
俺はいつも通り、無言のまま表情を消した。
両拳を土俵の砂に下ろした瞬間、剥き出しになった鋭い両眼で、飛猿の重心をじっと見据える。喋る必要はない。ただ、正面からぶつかり、圧殺する。俺のやることはそれだけだ。
緊張感で息が詰まりそうな静寂の中、行司の軍配が鮮やかに返った。
「――はっけよい!」
「ぬんっ!!」
立ち合いの一瞬。
俺の爆発的な突進よりもさらに早く、飛猿の身体が文字通り「土俵に消えた」。
(――低い!)
飛猿は正面からぶつかることを完全に放棄し、地を這うような超低空の体勢で俺の懐へと滑り込んできた。レスリング仕込みの高速タックル。
俺の突き押しが空を切り、次の瞬間には、飛猿の両腕が俺の右太腿をガシッと深く抱え込んでいた。
「……っ!」
相撲の決まり手――『足取り』。
飛猿は90キロの自重のすべてを俺の右足に預け、132キロの巨体を強引にひっくり返そうと、下からグッと突き上げてくる。
バランスを崩された俺の身体が、一瞬、大きくよろめいた。
客席から「おおおっ!?」「足を取られた!」と、今日一番の悲鳴のような大歓声が沸き起こる。
だが、俺の顔には、焦りなど微塵もなかった。
(なるほど。速いな。……でも、それだけだ)
俺はよろめいた右足に、さらに上から132キロの全質量をドスン、と強烈に浴びせかけた。
地道に踏み込んできた四股の足腰、そして琴音のちゃんこで作り上げたこの肉体は、単なる巨体ではない。
上から潰される形になった飛猿の顔が、驚愕で歪む。
まるで巨大な鉄の塊が降ってきたかのような質量。俺の足を持ち上げようとした飛猿の動きが、その重圧によってピタリと停止した。
俺は無言のまま、空いている左手で飛猿のまわしを上からガシッと鷲掴みにした。
(捕まえたぞ、スピードスター)
俺の剥き出しの両眼が、不敵に据わる。
ここからは、俺の時間だ。
(第17話・了)




