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5月場所、開幕

五月場所、初日。


午前九時を回ったばかりの両国国技館は、驚くほど静かだった。


テレビの中継はまだ始まっておらず、広大な館内を見上げても客席はまばらだ。熱心な相撲ファンが数人、ポツポツと座って静かにパンフレットを眺めている程度。夕方の満員御礼の熱気とは程遠い、寂しいほどの静寂が土俵を包んでいる。


だが、花道の奥、出番を待つ俺の胸の奥には、前相撲の時とは違う、「序ノ口」というプロの本場所へ挑む静かな自負が確かに灯っていた。


「おい、轟。いよいよ本場所だな。緊張してねえか?」


隣で、同じく今日がプロ初戦の満吉が、何度も自分の黒まわしを叩きながら声をかけてきた。いつものお調子者な顔が、心なしか少し強張っている。


「緊張? 別にしない。広い場所で相撲が取れるのは、気持ちよくていいな」


俺は、まだ髷も結えない短い髪の無骨な顔に、いつも通りの不敵で真っ直ぐな笑みを浮かべた。


196センチの巨躯をゆっくりと揺らしながら、ガラガラの館内を見渡す。客が多かろうが少なかろうが、俺のやることは変わらない。

132キロにビルドアップしたこの体で、目の前の相手を正面から叩き潰すだけだ。


「東、轟。西、岩波」


呼出しの声が、シーンとした館内に寂しく響く。


「よし、行ってくる」


「おう、ブチかましてこい!」


満吉の声を背に受けながら、俺はのっしのっしと土俵へ上がった。


196センチ、132キロ。その規格外の重戦車が静まり返った土俵に現れると、まばらな客席から「おい、なんだあのデカい新人は……」「荒磯部屋の轟か」と、静かな、しかし確かなざわめきが広がっていく。


対戦相手は、番付の底で何年も揉まれてきたベテランの岩波。

俺の体格を見上げ、一瞬だけ嫌そうな顔をしたが、すぐにフッと不敵な笑みを浮かべた。勝つためならどんな泥にでもまみれてきた男の、独特の余裕がそこにはあった。


二人が土俵の中央へ歩み寄り、腰を下ろす。

俺は、いつものんきな顔から完全に表情を消した。

両拳を土俵に下ろした瞬間、スイッチが切り替わる。観客の服が擦れる音まで聞こえる。

ただ、自分の底なしの力を解放する瞬間の、心地よい高揚感だけが全身を巡っていた。


(さあ……プロの土俵だ。俺をどこまで楽しませてくれる?)


張り詰めた静寂の中、行司の軍配が鮮やかに返った。


「――はっけよい!」


「ぬんっ!!」


俺は本能のまま、爆発的な一歩で前へ踏み込んだ。

132キロの質量が、弾丸となって岩波の胸へと突き刺さる――。


ドンっ!!!


炸裂するような凄まじい衝突音が、ガラガラの館内に一際大きく鳴り響いた。


だが、その瞬間、俺の目の前から、岩波の肉体がフッと消えた。


「――っ!?」


立ち合いの一瞬、岩波は俺の突進を正面から受けることなく、ひらりと横へ体をかわしたのだ。


相撲の戦術――『変化』。

プロが新人の勢いを殺し、泥を塗るための、最も古典的な逃げの技術。

綺麗事だけでは生き残れない世界の――これが、プロの洗礼だった。


俺の質量が、誰もいない空間へと突き抜ける。

勢い余った俺の身体は、そのまま土俵の外、円の境界線へと一直線に向かっていく。


(第13話・了)


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