黒まわしの宿命
新弟子教習所の朝は、実技の稽古から始まる。
まだ関取(十両以上)ではない俺たちは、「黒まわし」だ。
関取のように色付きのまわしを締めるエリートとは違い、土俵の周りは見渡す限り黒一色だった。
「ほら、轟! 腰が高いぞ! もっと割れ!」
指導員の親方の怒声が、教習所の板の間に響き渡る。
俺の体は、ただ普通に立っているだけでも目立つ。
荒磯部屋に入ってから数ヶ月、琴音のちゃんこを毎日限界まで平らげ、泥にまみれて四股を踏み続けてきた。
入門の時に125キロだった体重は、今や132キロまで増えている。
贅肉ではない。すべてが強固な筋肉へと変わった、重戦車の肉体だ。
「はぁ、はぁ……死ぬ、マジで死ぬ……」
俺のすぐ後ろで、満吉が生まれたての小鹿みたいに足をガクガクさせながら、泥まみれになって這いつくばっていた。
小柄な満吉にとって、教習所のシゴキは本当にキツいらしい。
「満吉、大丈夫か。俺の胸、もっと適当に押していいぞ」
「お前なぁ……適当に押して動くような壁じゃねえだろ、その体は……っ」
満吉は愚痴りながらも、俺のぶ厚い胸に何度も頭をぶつけてくる。
俺はそれを、どっしりと腰を下ろして受け止めた。
132キロになった今の俺の足腰は、前よりも遥かに頑丈に地面に根を張っている。
稽古が終わり、各自がバケツの水で泥を洗い流している時だった。
カツン、と硬い雪駄の音がして、影が落ちる。
見上げると、そこにはすでに稽古を終え、汗一つかいていない涼しい顔の御剣凱が立っていた。
「相変わらず、素人のような相撲だな、大河原」
御剣の切れ長の瞳が、俺の黒まわしを冷たく見下ろす。
前の場所で一敗を喫し、十両昇進へ後がないあいつの纏う空気は、以前よりも明らかに尖っていた。
「あぁ、御剣。今日もそっちの稽古は早めに終わったんだな」
俺はバケツの水を頭から被りながら、淡々と言った。満吉は御剣の威圧感にビビって、俺の背中へすっと隠れている。
「前相撲で実業団の荒金を破ったそうだが、あれで調子に乗るな。あんなものは、ただの力任せの泥仕合だ。本場所の取組は、そんなに甘くない」
御剣の声には、焦りからくる鋭いトゲが滲んでいた。
俺は濡れた髪をガバッと後ろに撫で付け、額を全開にした顔で、御剣を真っ直ぐに見据えた。
「甘くなくていい。俺はそういうののほうが、やりがいがあって好きだ」
「……何?」
「荒金との相撲。俺、あの時すごく楽しかった。本場所の取組なら、もっと強い人がたくさんいる。俺はそこへ行くのが待ち遠しい」
御剣の眉が、ピクリと跳ね上がった。
俺の言葉に、ハッタリや虚勢が一切含まれていないことを、あいつの天才的な本能が察知したのだろう。
「……フン。口だけは一人前だな。せいぜい、一番下の序ノ口で足元をすくわれないことだ」
御剣はそれだけ言い残すと、浴衣の裾をひるがえして去っていった。
「ひぇっ……心臓止まるかと思ったぜ……」
御剣の姿が見えなくなると、満吉が俺の背中からひょっこり顔を出した。
「なぁ、轟。お前、本当に御剣相手でも普通に喋るよな。あいつ、今場所死ぬ気で関取を狙っててピリピリしてんのに」
「焦っているな、御剣。負けたのがそんなに悔しかったのか」
「そりゃそうだろ! あいつはエリートなんだから!」
「ふうん……そんなもんか?」
俺は、自分のさらに大きく、分厚くなった手のひらをグッと握りしめた。
五月場所、初の公式戦。
増量したこの肉体で、誰もいない朝の土俵から、俺の本場所の取組が始まる。
(第12話・了)
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