四股名は轟の一文字で
四股名とは、
力士の「リングネーム」
本名とは別のプロとしての名前(最初は本名で、出世してから変える人も多い)。
名前の由来は「部屋」や「故郷」
所属部屋の伝統の一文字(「富士」「海」など)や、地名・山などの漢字を組み合わせるのが王道。
五月場所の番付発表を控えた、四月の終わりの荒磯部屋。
大広間のテーブルには、墨の匂いがかすかに残る真っ白な半紙が広げられていた。
「よし、轟。プロとしての『しこ名』を決めよう。いくつか候補を考えてみたんだ」
琴音が嬉しそうに、ノートに書き連ねた文字を俺に見せる。
『荒磯山』『大河原海』『轟天力』――どれも相撲取りらしい、威風堂々とした名前が並んでいた。
俺は琴音が用意してくれた山盛りの串カツを口に放り込み、もぐもぐと咀嚼しながらその文字を眺めていた。
「うーん……どれも、ちょっと文字が多いですね」
「えっ? 多いって、普通は三文字か四文字だよ?」
不思議そうに首を傾げる琴音の横から、荒磯親方がドカッとあぐらをかいて座った。
「轟、お前、何か希望があるのか?」
俺はソースのついた指をペロリと舐めると、額を全開にした無骨な顔に、不敵で真っ直ぐな笑みを浮かべた。
「親方、俺の名前は大河原『轟』です。この文字、車が三つも集まっていて、それだけで、ものすっごくうるさくて重そうでしょう? だから、余計な飾りはいりません。しこ名も、そのまま『轟』の一文字がいいです」
「轟……一文字か」
親方は腕を組み、その一文字を頭の中で転がした。
大相撲の歴史において、一文字のしこ名を持つ力士はそれだけで異彩を放つ。
何より、前相撲で国技館の天井を震わせた、あの重戦車のような突進の音を表すのに、これ以上の名前はなかった。
「……よし、決まりだ。お前のしこ名は『轟』。その一文字で、プロの番付をのし上がれ」
「ありがとうございます、親方。俺にぴったりです!」
俺は静かに一礼し、再び串カツに手を伸ばした。
気負いも緊張もない。
ただ、自分の進む道が当然のように決まった、そんな佇まいだった。
数日後。
五月場所へ向けた『新弟子教習所』が始まった。
国技館の敷地内にある教室には、合格したばかりの同期の新弟子たちがずらりと集められていた。
他部屋の尖った若者たちが互いを牽制し合うピリピリとした空気の中、196センチの俺は、一番後ろの席で窮屈そうに長い足を折り曲げて座っていた。
「……ねぇ、隣、いい?」
声をかけてきたのは、170センチそこそこの、少しぽっちゃりとした体型の男。
髪を後ろに撫で付けた頭に、人懐っこそうな細い目。荒磯部屋の同期、満吉だった。
「ああ、座りなよ」
「さんきゅー。さっきすれ違った奴らも話してたけど、前相撲であの荒金を力ずくでブチ抜いたって、他部屋の連中の間でも持ちきりだぜ!」
満吉は、俺が入門してから間も無くして入ってきた荒磯部屋の唯一の同期だ。
最初こそ俺の125キロの体躯に一瞬だけ気圧されながらも、すぐに調子よく喋りかけてくるようになった。
「満吉。俺のしこ名、今日から『轟』になった」
「マジか、一文字! 格好いいじゃん。……あ、これ、教習所の弁当の残り、食うか? 俺、大食いなんだけど、ここの唐揚げはちょっと脂っこくてさ」
満吉が差し出してきたプラスチックのパックを見て、俺はすっと目を細める。
「もらう。満吉、いい奴だな」
「だろ? 俺は体は小さいけど、耳は早いんだ。同期のデータは全部頭に入ってるからな。困ったことがあれば何でも聞きなよ」
唐揚げを美味そうに口に運ぶ俺の横で、満吉はふと前方を睨み、声を潜めて言った。
「たださ……あそこを見てみなよ。最前列の、御剣」
満吉の視線の先には、仕立ての良い浴衣を着た男が、背筋をピンと伸ばして座っていた。
高校生横綱の資格で、前の三月場所に「幕下十五枚目格付出」という破格の待遇でプロデビューしたエリート、御剣凱だ。
「前の場所、あいつはいきなり全勝して十両に上がるって大騒ぎされてたけどさ……プロの壁は厚かったね。元関取のベテランに引き落とされて、結局6勝1敗。全勝は一発で崩されたんだよ」
満吉はどこかホッとしたような、それでいて怯えるような複雑な顔で続けた。
「だから今場所、あいつは幕下の上位で、十両昇進(関取)を懸けて目が血走るほどピリピリしてんだ。1敗も許されないからな。俺たち序ノ口の人間とは最初から背負ってるものが違う天才様さ。関わらないのが一番だぜ」
満吉の言葉を聞きながら、俺は最後の一つになった唐揚げを口に放り込んだ。
そして、前を見据えたまま、低く、ずっしりとした重みのある声で呟いた。
「へえ、負けたんだ。完璧なやつなのかと思ってた」
「そりゃ負けるさ! プロの幕下上位は地獄だからな!」
「ふうん……。でも、負けたことがあるなら、俺と戦うときも言い訳はできない」
その言葉に、満吉はギョッとして俺の横顔を見つめた。
のんきに唐揚げを食べているだけなのに、その横顔からは、底の知れない圧倒的な自信が滲み出ていた。
(第11話・了)
大相撲の「新弟子教習(相撲教習所)」とは、新人のプロ力士が全員、半年間通うことが義務付けられている「力士の学校」です。
平日の朝から昼まで、両国国技館内の施設で以下を学びます。
実技(朝): 四股や股割り、ぶつかり稽古などの基本技術と、土俵上の礼儀作法。
座学(午前): 相撲の歴史、習字(四股名を書くため)、スポーツ医学、社会人のマナー。




