ダークフォースの底で目覚めたら、マスクなしで笑う少女がいた
目を覚ました時、オレはまず、自分が死んでいないことに驚いた。
次に驚いたのは、顔に何もつけていないという事実だった。マスクは緊急脱出の際に完全に吹き飛んでいた。ダークフォースの海で数分マスクなしにいれば肺が腐る――それが常識だったはずだ。
「……あれ? オレ、生きてる?」
試しに自分の頬をつねってみる。ちゃんと痛い。息を、恐る恐る吸ってみた。空気は、思っていたよりずっと澄んでいた。少し甘く、湿った土の匂いがする。むしろ、ポトスの工房で嗅いでいた油煙よりも、遥かに肺に優しい空気だった。
「……どうなってんだよ、これ」
周囲を見渡す。そこは、想像していた「死の沼地」とはまるで違う光景だった。
淡く発光する霧が地表を這い、その隙間から、見たこともない色をした植物が静かに息づいていた。青みを帯びた朱の花弁が、風もないのにゆっくりと開閉している。梢には、砂糖菓子のようなクリスタルが幾つもぶら下がり、オレの見ている前でぽろりと落ちて、地面に触れると溶けるように靄になった。
恐ろしいというより、どこか神秘的で、美しいとさえ感じてしまう場所だった。
オレは手のひらの中の風の太鼓を、握り直した。硬い金属の感触が、これが夢でないことを教えてくれる。
ふらつく足取りで立ち上がろうとした時、背後で葉擦れのような音がした。
振り返る。
立っていたのは、一人の少女だった。
白銀に近い、腰まで届く長い髪。透き通るような肌。そして何より印象的だったのは、ダークフォースの海の真っ只中にいながら、彼女もまた、マスクをつけていないということだった。
肩には、猫よりも小さな翼を持つ生き物がちょこんと乗っている。丸い黒目が、じっとオレを見ていた。
少女は小首を傾げた。声は、鈴を転がすように澄んでいた。
「……あなた、生きてる人?」
オレは返事をするのに、たっぷり十秒はかかった。
「あ、ああ。……多分な」
「多分、っていうのは、どういうこと?」
「いや、その、なんつーか、オレ自身、自分が生きてる自信がなくて、な」
「ふふっ。変な人ね」
少女は、そう言って、ちょこんと笑った。その笑顔は、オレがこれまで見てきたどんな人間のものとも違っていた。どこか浮世離れした、まるで森そのものが人の姿を借りたような、不思議な気配。
「わたし、テティス。この子はモグロ」
肩の小さな翼獣が「くるるっ♪」と鳴いてあいさつした。バルーン色の瞳が、興味深そうにオレを覗き込んでいる。
「お、オレはロビン。……なあ、テティス。一つ聞いていいか」
「うん、いいよ」
「なんで、そんなノーマスクでピンピンしてんだよ、お前」
「ここでは、それは必要ないもの」
「必要ない、って、お前……」
オレはガシガシと頭をかいた。世界の常識ってやつを、いきなり丸ごとひっくり返された気分だった。
「……いや、待て。じゃあ、オレは? オレも、マスクなしで平気なんだけど、これは?」
「そうね。あなた、少し……変わってるかも」
テティスの視線が、オレを上から下まで、ゆっくりと撫でた。品定めするような視線じゃない。何か、オレの中の「何か」を見ているような目つき。
「変わってる、って、どう変わってんだよ」
「うーん。……それは、少し、時間がかかるお話」
彼女は、オレの問いに直接答えず、代わりに、少し困ったような顔で首を傾げた。
「それより――」
彼女の視線が、オレの左脚に向けられた。オレもつられて視線を落として、思わず息を呑む。ズボンの生地が破れ、太腿の外側からじわりと血が滲んでいた。緊急脱出の時にどこかで切ったらしい。麻痺していて、痛みにさえ気づいていなかった。
「その怪我、放っておくと危ないわ。……ついてきて?」
「ま、待てよ、お前、初対面の男を、そんな簡単に――」
「大丈夫」
テティスは、オレの警戒を先回りするように、そっと片手を差し出した。
「わたし、あなたを傷つけたりしないから」
その声に嘘の気配はなかった。実際、オレには彼女についていく以外の選択肢が、そもそも残されていなかった。ここが本当にダークフォースの海の底なら、彼女なしでオレは三日と生き延びられないだろう。
オレは差し出された細い指を――少し、迷ってから、握り返した。
肩のモグロが振り返って、「くるるっ」ともう一度鳴いた。まるで、「ちゃんとついてこいよ」とでも言っているみたいだった。
その時。
ふと、オレの胸元の風の太鼓が、かすかに青白い光を漏らしていることに、オレは気づいた。
姉さんの残した警告文字と、同じ色の光だった。




