ニューヨークの矜持
放課後の地下スタジオへと続く階段を降りる主人の肩で、僕は世界を斜めに見ていた。一段降りるごとに、僕の塗装の奥まで冷たい湿気が染み込んでくる。だが、扉に近づくにつれ、その湿気は暴力的なまでの振動へと変わった。僕のピックアップが、空気の震えを拾って微かな唸りを上げ始める。僕の弦はまだ一本も弾かれていないというのに。
扉を開けた瞬間、暴力的な「現代」が僕の回路を蹂躙した。
そこにいたのは、短い髪を乱暴に振り乱し、銀色のアルミ筐体を抱えた少女、ニューヨーク。
彼女は僕を見ようともせず、自らの足元にある電池駆動のアンプへと繋ぎ、一人きりで無機質な爆音を撒き散らしていた。
それは、僕という異物――1966年製のヴィンテージという名の幽霊を寄せ付けないための、電気的な拒絶。
彼女が一人で吐き出すその音には、ラムズヘッドのような繊細な倍音の重なりも、トライアングルが持つ高貴なサステインの余韻もない。ただひたすらに、鼓膜を圧迫し、空間を物理的に断つためだけに研ぎ澄まされた、合理的で硬質な音の壁。
それが、彼女の矜持だった。
主人の手が僕のボディに触れ、僕を構える。
スタジオを埋め尽くす彼女の爆音は、何者も受け入れないという拒絶の意志そのものだ。一人で鳴らし続けるそのノイズが、スタジオの空気を真空に近い緊張感で満たしていた。
ふん、どうせあんたも、私の音を深みがないとかバカにしてるんでしょ。伝説の先輩たちに比べれば、ただうるさいだけだって!
ニューヨークが、自分の鳴らすノイズに負けないよう声を張り上げる。彼女は理解しているのだ。自分がいかにパワフルに鳴ろうとも、この学園に眠るヴィンテージたちの影には、その時間の重みには勝てないことを。だから彼女は、誰の言葉も届かないほどの音圧の中に閉じこもり、自分を肯定しようともがいている。
僕の内に宿るのは、リー・ラナルドの精神だ。
彼は、僕という楽器を綺麗なメロディを奏でるための道具だなんて、最初から信じていなかった。
主人の指が、僕の弦を捉えた。
主人は、僕の弦を弾くのではなく、指先で無造作に叩いた。
ポツ、という、電気的に増幅されない乾いた打撃音。それは彼女が撒き散らす爆音の壁に比べれば、あまりにも小さく、あまりにも無力な音だ。
だが、その音に含まれる実体が、彼女の耳に届いた瞬間に空気が変わる。
なによ、その音……。馬鹿にしてるの? そんな小さな音で、何ができるっていうのよ!
ニューヨークが顔を歪める。
バカにしているわけではない。これが、作為という名の被膜を剥ぎ取った、生の振動だと言っているのだ。
君の音は、あまりにも完璧に整えられすぎている。ヴィンテージという名の幽霊に勝とうとするあまり、自分のノイズを切り捨て、ただの大きな数字の中に逃げ込んでいる。
主人はさらに、僕のブリッジ付近を手のひらで乱暴に擦り合わせた。
キュッ、キュッ、という、木材と金属が軋むだけの、不快な物理振動。
それは直接繋がっていなくとも、空気という媒体を介して、彼女の抱える銀色の筐体を物理的に揺さぶり、彼女の回路を、コンデンサを、強制的に共鳴させていく。
やめて、私の音を邪魔しないで! 私の音が一番正しいって、証明しなきゃいけないのに!
彼女はさらにゲインのノブを回す。だが、音を上げれば上げるほど、その中心にある空虚さが浮き彫りになっていく。
彼女が独りで爆音を鳴らして隠そうとしていた劣等感が、僕の放つ意味を持たない生音の前に、無防備な姿を晒し始めていた。
僕は、ただそこにある。
自分を偽り、過剰な負荷で鳴り続ける彼女。その危うい均衡が崩れるのは時間の問題だった。
……あ、……あぁ……。
ニューヨークの瞳の中で、赤いLEDが絶望を写し出したかのように暗く沈んだ。
彼女はついに耐えきれず、自らの爆音を止め、崩れ落ちるように膝をついた。
静寂が戻ったスタジオには、彼女の荒い呼吸音だけが、不規則なノイズのように響いている。
どうした。一人で鳴らすのは、もう終わりか。
僕は木材の振動を通じて彼女を突き放す。
彼女は肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で僕を睨み返した。その手首に刻まれた、かつての持ち主によって代用品として扱われた際の傷跡が、地下スタジオの薄暗い光の中で赤く浮き上がっている。
なによ。……結局、あんたも私をバカにするのね。ヴィンテージのくせに、音さえ出さないで……。
彼女の声は、先ほどまでの刺々しさを完全に失っていた。
けれど、その瞳の奥には、まだ消えきっていない火が灯っている。
ヴィンテージへの激しい劣等感。そして、現役としてここに存在し続けるという、悲痛なまでの意地。
その二つが、冷え切ったスタジオの空気の中で混ざり合い、彼女のインプットを、見たこともないような熱量で焦がし始めているのを、僕はピックアップの微かな誘導電流で感じ取っていた。
主人は、僕を再び背中に戻す。
今日のところは、これでいい。
彼女の矜持という名の虚飾を一度破壊し、その下に隠されていた剥き出しの飢餓感を引きずり出した。
彼女がその壁を自ら取り払い、真実の音を求めるまで、僕はまだ、沈黙を保ったままでいる。
待ってよ、……勝手に終わらせないで。……私の音を、もっと聴きなさいよ!
背後から聞こえる、彼女の叫びのような声を無視して、僕たちは階段を上る。
ニューヨーク。君の音は、まだ完成していない。
だが、君が自分の欠落を認め、自らその手を伸ばす準備ができたとき。
そのとき初めて、僕の信号は君の深淵を貫き、僕たちの音は一つに溶け合うことになるだろう。
階段を上り切ったとき、地下から一度だけ、小さく震えるようなハウリングの音が聞こえた。
それは、彼女が一人で流した、プライドの残骸が奏でる、あまりにも孤独な悲鳴だった。




