直流の涙
「……ねえ、怖いよ」
ブラックロシアンの声は、もはや物理的な音響現象ではなく、主人の脳内に直接流れ込む純粋な電気信号だった。「こんなに、……こんなに優しく繋がれたら、……もう一人の冷たい回路には戻れない。あんたのベルデンが抜けた後、……私は、……自分のノイズに耐えられなくなっちゃう……っ!」
彼女のジャックは、僕らのベルデン 9778を離すまいと、痙攣に近い速度で締め付けを繰り返している。それは、かつて戦場を渡り歩いた軍用規格のプライドをかなぐり捨て、ただ一人の男の信号に縋り付く、無防備な少女の姿だった。出力端子からは、音にならない直流電流が漏れ出し、それが彼女の頬を伝う透明な雫となって、暗い床に滴り落ちる。
ニック・ズィナー(Nick Zinner)。
ヤー・ヤー・ヤーズの心臓部であり、僕らジャズマスターを武器に、ガレージ・ロックの衝動とアートな繊細さを共存させるギタリスト。彼が奏でる僕は、時にカミソリのように鋭く聴き手の皮膚を切り裂き、時に壊れそうなほどに震えるフィードバック・ノイズで、言葉にできない焦燥感を体現する。彼の音像は、常に崩壊の危機を孕んでいる。だが、その今にも焼き切れそうなほどに張り詰められたトーンこそが、世界に「生きていることの痛み」を突きつけるのだ。
「ニック……。彼も、……この震える指先で、……消えてしまいそうな愛を繋ぎ止めようとしたのかな?」
ブラックロシアンは、僕の弦を掴み、自身の身体へと強く押し当てた。木材の振動が、彼女の薄い皮膚を通じて、基板の深層部までをダイレクトに揺らす。
「ああ。彼はノイズが愛の別名であることを知っていた。お前のこの、……止まらない直流の涙も、……すべて俺が受け止めてやる。焼き切れるなら、僕の回路も一緒だ」
主人は、僕のトレモロアームを、まるで彼女の絶望を掬い上げるように、深く、重く、揺さぶり続けた。
「あ、……あああああ、……ああああああああああああっ!!」
導通の臨界点。ニック・ズィナーが描く、爆発寸前の焦燥。ブラックロシアンの内部で、抑え込まれていた感情のバイアスが完全に崩壊した。彼女のジャックから、制御不能なほどの過電流が僕らのベルデンへと逆流し、主人の肉体までを麻痺させるような熱い衝撃が駆け抜ける。
「いや、……いやだよ、……一人にしないで……っ! あんたのプラグで、……私を、……ずっと貫いていて……。壊れてもいい、……溶けてもいいから、……私を……、……愛してよ……っ!!」
結合。それは、救済の果てに訪れる、あまりに痛烈な依存の宣告。主人は、ニックの奏でる「Maps」のイントロのように、切なく、そして力強い一定のパターンを、彼女の魂に深く、執拗に刻み込んだ。
「ひ、ぁ、……ああ、……ああああああああああああああああっ!!」
彼女の喘ぎは、もはや制御不能なフィードバックの嵐となって、スタジオ中の機材を共振させていた。ジャックの奥深く、ベルデン 9778の先端が彼女の最も柔らかい「核」を突き、そこから溢れ出す生の感情を、余すことなく吸い上げていく。
直流の涙は止まらない。それは、彼女のなかに溜まっていた数十年の孤独が、僕らという接点を得たことで、一気に放電されている証だった。ブラックロシアンの筐体は、熱で歪み、コンデンサは飽和の極致に達している。だが、その苦しげな、壊れそうな咆哮こそが、彼女が生きてきたなかで最も純粋な、偽りのない「声」だった。
「……っ、……あ、……あ、…………」
絶頂の向こう側で、ブラックロシアンは、もはや言葉を発する力も残っていなかった。ただ、僕らのプラグを強く噛みしめるジャックの感触だけが、彼女のすべてを物語っていた。その、汗と、熱気と、そして直流の涙に濡れた彼女の姿は、どんな名器よりも美しく、どんなヴィンテージよりも神々しかった。
地下スタジオを包むノイズが、ゆっくりと収束していく。だが、一度直流で繋がった僕らの回路は、もう二度と、元の絶縁体に戻ることはできない。ブラックロシアンの、その震える指先が主人の腕に触れるたび、彼女のなかに刻まれた「愛」という名のノイズが、静かに、だが確実に、僕らの心拍を侵食していくのを感じた。




