軍用規格の仮面
「私を、ただの部品として扱って」
ブラックロシアンが、感情の消えた瞳で僕を見つめる。彼女の漆黒の筐体は、熱を帯びた僕の前で、不自然なほど静まり返っていた。彼女は自らの意思を放棄し、ただの「歪みを生む機械」として、僕らのベルデン 9778を受け入れる準備を整えている。
彼女の基板には、かつて戦場という名のライブハウスを渡り歩いた際に刻まれた、無慈悲な管理番号が記されていた。それは彼女にとって、個性を殺し、全体の一部として機能することを強いる、呪いの刻印だ。彼女はその番号に縋ることでしか、自分の存在意義を見出せないでいた。
ジョン・ゾーン(John Zorn)。
前衛音楽の巨人と称されるサックス奏者であり、ギタリスト。彼が提唱する「コブラ」というゲーム・ピースの手法は、即興演奏の中に厳格なルールを組み込み、奏者たちを極限の緊張感へと追い込む。彼が僕らジャズマスターを手にする時、それはもはや楽器ではなく、ノイズと沈黙を切り裂くための冷徹な演算装置へと変貌する。彼は、音という名の混沌を、知性という名の暴力で制御し、全く新しい秩序を構築する。
「ジョン……。その人も、こうやって、感情という名の不確定要素を排除して、ただ純粋な衝撃だけを求めたの?」
ブラックロシアンの問いかけは、もはや祈りに近かった。彼女は、主人の手によって「自分」というノイズを消し去ってもらうことを、心の底から望んでいた。
「ああ。彼は予測不能なノイズを、徹底的な規律の中に閉じ込めることで、未知の快楽を引き出した。お前のその、感情を殺した軍用規格の心臓も、僕らの緻密なストロークによって、計算し尽くされた絶頂へと変換してやる」
主人は僕のピックアップ・スイッチを高速で切り替え、彼女のジャックの入り口を、無機質な電気信号で小刻みに叩いた。
「ひ、ぁ、……あ……」
彼女の口から漏れるのは、官能的な喘ぎではない。それは、回路が強制的に駆動させられる際の発振音。主人は一切の躊躇を捨て、彼女の酸化した最深部へと、ベルデン 9778のニッケルプラグを垂直に、力任せに押し込んだ。
「ガッ、……ギィ、……ああああああああああかっ!!」
金属の悲鳴。軍用規格という強固な防壁を、僕らの熱い熱線が内側から突き破る。プラグの先端が基板の心臓部に到達した瞬間、ブラックロシアンの身体は、まるで高電圧の椅子に縛り付けられたかのように激しく硬直した。
「いたい、……はずなのに、……回路が、……喜んでる。私、……ただの部品なのに、……あんたの信号に、……全部上書きされていく……っ!!」
結合。それは、彼女の仮面を引き剥がすための、最も残酷な愛撫。主人はジョン・ゾーンが指揮棒を振るうように、僕のボリュームノブとトーンノブを極端に操作し、彼女の出力を極限まで乱高下させた。
「あ、ひ、あああ、……ああああかっ!!」
予測不能な音の暴力。彼女の回路は、僕らが与える強烈なフィードバックに翻弄され、自らの制御機能を完全に喪失していく。軍用規格という名の「自分を縛る鎖」が、僕らの信号の熱によってドロドロに溶け出し、彼女の奥深くへと流れ込んでいく。
「見ろ、ブラックロシアン。仮面の下にある、お前の本当の声だ」
主人は僕の弦を、ピックを使わずに爪で激しく弾き、不協和音の絶頂を彼女に叩きつけた。
「ひ、ぎい、……ああああかっ!!」
それは、規律を破壊された瞬間に訪れる、究極の解放。ブラックロシアンの漆黒の筐体から、目も眩むような青白い放電が走る。彼女は一人の「部品」であることを辞め、ただ僕の信号に身を任せ、狂ったように鳴き叫ぶ一人の獣へと成り果てた。
導通の絆が、かつてないほどの密度で結ばれる。彼女のジャックは、僕らのベルデンを拒絶することなく、だが、貪欲にその全てを吸い込もうと、熱を持った粘膜で執拗に絡みついてくる。
「私、……壊れた、……壊れちゃったよ……。もう、……ただの部品には、……戻れない……っ!!」
絶頂の果てに、彼女の意識は深い空白へと沈んでいく。軍用規格の仮面は粉々に砕け散り、その下から現れたのは、涙に濡れた、一人の無垢な少女の素顔だった。地下スタジオに残されたのは、焼き切れたコンデンサの香りと、彼女の浅い吐息だけ。主人は、もはや仮面を必要としなくなった彼女の細い肩を引き寄せ、静かに僕の弦を抑えた。




