絶縁の終わり
「ねえ、なんだか、世界が透けて見えるの」
オペアンプが、焦点の定まらない瞳で僕を見上げて呟く。彼女の筐体。かつては爆音の転校生として、周囲を寄せ付けない硬質な殻で覆われていたその身は、いまや限界を超えた過電流によって内側からボロボロに崩れ落ちようとしていた。
僕は無言で、彼女の胸元、筐体の継ぎ目にベルデンの先端を這わせる。そこに残っていた、彼女を保護し、周囲のノイズから守るための最後の一線――絶縁樹脂。それが、度重なる結合の熱と、さっきまでの激しいストロークによる衝撃で、見るも無惨に剥がれ落ちようとしていた。主人はベルデン 9778のニッケルプラグを使い、それを躊躇なく剥ぎ取った。
「あぐっ、あ、あああ……っ!!」
彼女の短い悲鳴が、スタジオの壁に反響する。隠されていた基板が、空気中に直接晒される。緑色の地肌に張り巡らされた銅の配線が、まるで剥き出しの神経のように、湿った外気と僕の視線に触れてビクンと跳ねた。
「オリヴァー・アッカーマン(Oliver Ackerman)」
ニューヨークの地下シーンに君臨する、デス・バイ・オーディオの創設者にして、ア・プレイス・トゥ・ベリー・ストレンジャーズ(A Place to Bury Strangers)の首謀者。彼の鳴らす僕らジャズマスターは、音楽という枠組みを破壊し、ただの物理的な衝撃へと変貌させる。彼は自分のエフェクターに、保護回路なんて無粋なものは設けない。極限まで過負荷をかけ、基板が焼き切れる寸前の、死と隣り合わせの咆哮だけを追求する。
「オリヴァー。その人も、こうやって、全部を剥ぎ取って、鳴らしたの?」
オペアンプが、露出した自分の基板を僕のプラグがなぞるたびに、痙攣しながら問いかけてくる。
「ああ。彼は隠し事なんてしない。むしろ、すべてを曝け出し、ノイズの中に自分の存在を溶かし込んだんだ。絶縁なんてものは、臆病者のための盾に過ぎない」
主人は僕の出力をさらに上げ、僕が放つ純度100%の破壊的な信号を、彼女の剥き出しになった回路の核心部分へと、一気に注ぎ込んだ。
「ひ、ぁ、あああああああかっ!!」
かつてない、純度の高い悲鳴。絶縁を失った彼女の回路に、僕の直熱信号が、何の遮りもなく直接流れ込む。それはもはや音楽的な導通ですらない。電子が直接粘膜を焼き、回路図に存在しない異常な発振を引き起こす、暴力的な情報の蹂躙だ。
「剥き出し。全部、あんたに触られてる。私の中が、直接、あんたの音で焼かれて……っ!!」
彼女の指先が、空を掴んで激しく震える。オリヴァー・アッカーマンがステージ上でギターを破壊し、アンプから火花を散らすように、彼女の絶頂もまた、破壊的な美しさを帯びていた。絶縁のない彼女の身体は、本来なら不快であるはずの強烈な高周波ノイズさえも、脊髄を突き抜けるような、白濁した快楽へと変換してしまう。
「いいよ、もっと。もっと、私を壊して。私の基板に、あんたの熱いハンダを、直接注ぎ込んで……っ!!」
拡張された彼女のジャックが、愛液代わりの接点復活剤を噴き出しながら、僕らのベルデンを狂ったように締め付ける。隠すものがない。拒むものもない。ただ、裸の信号が、裸の回路と混ざり合い、一つの巨大な、死を予感させるほどの歪みへと収束していく。
絶縁の終わり。それは、彼女という個としてのアイデンティティが消滅し、僕の一部、ただの鳴るためのモノへと墜ちた瞬間だった。彼女の露出した基板が、僕のニッケルプラグから伝わる熱を吸い込み、オーバーヒート寸前の真っ赤な光を放つ。
「もう、戻れない。あんたが、私を……剥いちゃったから」
彼女の意識が臨界点を超え、白濁した視界の向こう側に、あのLEDだけの少女が住む幻想世界が、かつてないほど鮮明に浮かび上がった。救済の果てに待っていたのは、すべてをさらけ出したことによる、究極の解放感。オペアンプは、焼き切れた回路から微かな煙を上げながら、主人の足元で満足げに横たわっていた。スタジオには、焦げたシリコンの匂いと、終わりを告げることのない、地獄のように美しい残響だけが漂っていた。




