逃げる者、追う者、魅せる者
皇帝暦1899年4月15日。王城前。
「アクル様……本当にお帰りになってしまうのですか?」
春風に美しい髪を靡かせ、涙を浮かべて問いかけるのは、第一皇女サン。彼女の目から零れ落ちた一粒の雫は、地に落ちる前に太陽光を孕み、きらりと宝石のように輝いた。
「サン。すぐに戻りますから、どうか涙を拭いてください」
私は努めて優しい笑顔を浮かべ、白い手袋の指先で彼女の目元をそっと拭った。だが、サンの「宝石」は止まらない。
彼女の背後では、愛娘の別れを惜しむ風でもなく、ただ楽しげに笑みを絶やさない皇帝陛下が立っていた。実にもてあそばれている。陛下はサンがこうなることを見越した上で、私へのお見送りを提案したのだ。
(いつかあの狐の仮面を剥ぎ取り、私の前で本心をさらけ出させてやる……)
心の中で舌を打ちながら、私はサンを宥める。
「サン。どうせ私たちは九月になれば、王都の学校へ通うために再び顔を合わせるのですから」
「それでも……それでもよ! わたくしは、やっとアクル様と一緒に過ごせると思って……っ!」
少しばかり執着が強すぎるのではないか。将来の国母としてのていたらくを案じ、私は諭すように声をかける。
「時には我慢も必要です。将来、国のために働く身となれば、今のような醜態を国民に晒すわけにはいかないのですよ?」
諭されたサンは一呼吸置き、零れ落ちる涙をピタリと止めた。そして、信じられないほど冷徹な瞳で私を見据えたのだ。
「では、第一皇女として命令します」
その声音の豹変ぶりに、私は驚きを隠せなかった。泣き落としに見せかけた演技か? いや、彼女にそこまでの狡猾さはないはず。困惑する私を余所に、サンは毅然と言い放った。
「わたくしの婚約者、セイラント・アクル。九月からは王城に駐在し、私の側で仕えなさい。これは個人的な我が儘ではなく、帝国の継承者、第一皇女としての『公式な命令』です」
掠れながらも威厳に満ちた娘の言葉に、父親である皇帝陛下すら目を見開いていた。
(陛下の入れ知恵でもない……。ということは、彼女は自らの意志で、召使いたちという『証人』の前でこの不退転のカードを切ったのか)
背後では、皇帝陛下が「アクル、うちの娘がすまない……」と、同情と哀れみの入り混じった視線をこちらに送ってきている。それもそのはずだ。九月からの王城駐在は、すでに私と陛下の間で内定していた。サンはその話をまともに聞いていなかったのだろうが、結果として、自らの手で最も効果的な形でその未来を確定させたのだ。
「第一皇女サン様。その御命、謹んでお受けいたします」
無駄な時間ではあったが、彼女の「化けの皮」の片鱗を見られたという意味では、極めて有意義な時間だった。
「アクル様、約束ですからね!」
濡れた瞳を輝かせるサンに見送られ、私は馬車へと乗り込んだ。
(さて、九月になる前に……ワットランと完全に決着をつけなければな)
無能な父上では対処できないであろう巨大な利権を前に、前世の政治家としての血が歓喜に震えていた。
同日、領地への道中。進む馬車の車内。
「ラント。ワットランへの工作はどうなっている」
「はい、アクル様。順調にございます。物流、軍事の双方から侵入を完了しており、農民に扮した工作員も多数潜伏しております」
ラントは完璧な報告を済ませ、少しだけ褒めてほしそうに私に視線を送ってくる。だが、私はあえてそれを無視し、顎に手を当てて思考を巡らせた。少ししょんぼりと肩を落とすラントの様子は、見なかったことにする。
「アクル様。付け加えますと……ワットラン領の反乱は、我々が手を下さずとも遠からず勃発するかと」
「ほう? 詳しく聞こう」
「ワットラン侯爵は我が領に対抗するため、過度な農地拡大と軍事増強を強行し、領民の不満は限界に達していました。その上で、昨日『さらなる増税』を発表した模様です。あまりの愚策に、商人や小作農からも完全に火の手が……」
ラントは私の冷徹な眼光に気づき、言葉を濁した。私は静かに目を閉じる。
(そこまでの愚鈍か、ワットラン。手を下す価値すら見出せないな。……いや、待て。あまりにもタイミングが良すぎる。セイラント以外の『第三勢力』……あるいは隣国カントランドあたりが、裏で糸を引いてワットランを暴発させようとしている可能性もあるな)
「アクル様、このまま静観いたしますか?」
「いや、ラント。『揺さぶり』をかける。ワットラン侯爵へ、わざと反乱の具体的な気運をリークしろ」
ラントがあからさまに戸惑いの表情を浮かべる。
「反乱を裏で操るのが我が領だけでないと言うのなら、一度ワットラン自身にそれを食い止めさせてみよう。敵の本当の出方を炙り出すための撒き餌だ」
一拍置き、意図を理解したラントは「畏まりました」と深々と頭を下げた。彼女は即座に伝書鳩を放ち、闇のネットワークへ手紙を届けていく。
(さて、ここからが本当の『盤上の舞踏大会』だ)
不敵な笑みを浮かべ、私は窓の外を流れる景色を冷ややかに見つめていた。
同日。ワットラン侯爵邸、執務室。
「な、何だと……!?」
ワットラン侯爵リンク・ランクは、額から滝のような汗を流し、肥大化した腹を揺らしながら絶叫した。
「ワットラン様。農民たちの間で、武器を募り怪しい動きがあるとの報告が……」
「くそっ、くそっ、無能どもがァ!」
無能な豚は、危機に直面するとただ鳴き声を上げるだけのようだ。
「ワットラン様、いかが致しますか?」
「発生する前に圧殺しろ! 軍をすぐに出せるよう、直ちに全軍へ出兵準備をさせろ!」
唾を飛ばし、狂乱しながら怒鳴り散らす侯爵。命令を受けた召使いが退出すると、部屋の外で待機していたメイドたちが恐怖に身を震わせていた。ワットラン領の底辺で、何かが確実に、そして巨大に蠢き始めていた。
同日。ワットラン侯爵領、軍部作戦司令室。
「侯爵命令である。何時でも出兵、および領民への鎮圧を行えるよう、全部隊を待機状態にせよ」
突然もたらされた伝令に、司令室の空気は凍りついた。
司令官の額に青筋が浮かぶ。彼は震える手で持っていたペンにじわりと力を込めた。
「……君は、今自分が何を口にしたか理解しているのかね? 相手は我が領の民だぞ」
「侯爵命令です。従わなければ侯爵条例違反とみなし、即座に貴方方を解任いたします」
淡々と他人事のように言い放つ召使いに対し、司令官は深く重い沈黙を貫いた。
パキリ、と硬い音が響く。司令官の手の中で、一本の高級万年筆が真っ二つに折れていた。
「……わかった。命令を各部隊に伝える」
司令官はあからさまにふらつきながら、新しいペンを取り、震える文字で指令書を書き進めた。カリカリと、部屋には虚しいペンの音だけが木霊する。
「これを第一部隊に届けろ」
指令書を受け取った使いが退室したのを見届け、司令官と、隣に座る副官は同時に深く、重いため息をついた。
「……閣下。我々は何のための軍なのでしょうか」
副官は窓の外、強制労働に喘ぐ民たちの姿を見つめながら、消え入りそうな声で問いかけた。
軍とは、気高き民の盾であり、国を守るためにあるべきもの。しかし、今彼らが向けようとしている刃は、守るべき国民の喉元なのだ。
「私にもわからん。……しかし、一つだけ言えることがある」
司令官は折れた万年筆を見つめ、静かに、しかし決然と言い放った。
「我々もまた、一人の『人間』だということだ。……君は、最後まで私についてきてくれるかね?」
「私は閣下の副官ですから。地獄の果てまで、お供いたしますよ」
にこやかに微笑む副官の言葉に、司令官は少しだけ安堵の息をもらした。
ワットランへの忠誠が、軍人の信念とともに完全に崩壊した瞬間だった。




