会議は踊る。狂気も踊る
皇帝暦1899年4月14日 ワットラン侯爵領
(おかしい。何故こんなに周りが騒がしいのだ? 私がこの農地に潜入してから、まだ大して時は経っていないというのに……)
一人の若い農民。その実、どこかの陣営から送り込まれた工作員は、クワを動かしながら周囲の不穏な空気に目を凝らしていた。土埃にまみれ、茶色く汚れた衣服と吹き出す汗が、過酷な強制労働を物語っている。
「先輩、何かあったんですか?」
「ああ……。噂に聞くと、西の方の農地で大規模な『民衆反乱』が起きやがったらしい」
先輩小作農の言葉に、若い男は目を見開いた。
(おかしい。早すぎる。我々の計画では、暴発はまだ先のはずだ。上層部一体、何を考えているんだ……!?)
彼が困惑の泥沼に沈んでいると、近くにいた見張りの兵卒が怒鳴り声を上げて突っ込んできた。
「貴様! 何をサボっている! 早く手を動かせ!」
恐喝するような眼差し。あまりの愚鈍さに滑稽さすら覚えるが、今は目立つわけにはいかない。
「んだと? 貴様らの飯を誰が作ってやってると思ってんだァ!」
先輩が私を庇うように見張りに色めき立つ。
「先輩、僕のことはいいですから……」
この場を一旦収めた若い男は、すぐさま懐から一羽の伝書鳩を放った。事態を上層部へ確認するために。彼はまだ知らない。その「西方の反乱」こそが、セイラントの神童が仕掛けた虚構の毒だということを。
同日。ワットラン軍部 作戦司令室
「くそっ! 何故だ! 何故反乱が収まらん! 暴徒どもをすべて駆逐しろ!」
作戦司令室で狂ったように喚き散らし、軍事会議の邪魔をしているのは、この領地の長であるワットラン侯爵その人だった。
「侯爵殿。ここは軍部の、神聖な作戦会議の場であります。いくら領主様とはいえ、退室願いたい」
冷徹なレンズの奥に静かな怒りを燃やし、そう告げたのは司令官だ。彼は腕を組んだまま、窓の外の景色から一切視線を動かさない。
「閣下。これ以上の武力鎮圧は火に油を注ぐだけです。民の要求を聞き入れ、一度軍を引くべきかと」
客観的な戦況分析を具申したのは、副官のガイランドだった。しかし、自らの狭い視野でしか世界を見られない侯爵にとって、その正論は『反逆』と同義だった。
「貴様ら……! 私に逆らうというのだな! 誰のおかげでその階級にいると思っている!」
「これを反乱と捉えられるのであれば、私を即座に解任してください。こちらから願い下げだ!」
ガイランドは首元の階級章を毟り取り、激音とともに会議机へ叩きつけた。司令官は一向にこちらを振り向かない。ただ沈黙を守っている。
「貴様、即刻叩き出せ! 召使い共、この反逆者を地下牢へ連行しろ!」
感情に任せて有能な鷹を手放す、究極の愚行。
命令を受けた近衛の召使いたちが、すぐにガイランドの身体を拘束した。ガイランドは連行されながら、火に油を注ぐような冷笑を侯爵に投げかける。
「ワットラン侯爵。貴様はいつか必ず、己の判断が決定的に間違っていたと知るだろう。……その時、貴様の首が胴体に繋がっていればいいがな!」
地下へと続く、薄暗い回廊。
「……副官殿。ワットラン様のことを、本当はどう思っておいでですか?」
不意に、私を連行していた召使いの一人が話しかけてきた。侯爵の忠実な犬だと思っていた、あの老獪なメイド長だ。
「さっき言った通りだ。これ以上私の罪状を増やしたいのか? 早く独房へ入れろ」
「私は、セイラント領から送り込まれた工作員です」
唐突な暴露に、ガイランドは唖然として足を止めた。額から冷や汗が流れる。
「貴様……何を言っている?」
「副官殿。いえ、ガイランド殿。率直に申し上げます。この腐った領地を救うため、私共と手を組みませんか?」
一瞬の沈黙の後、ガイランドは狂ったように大声で笑い出した。
「ふはっ! ど、どうせあの豚に睨まれた時点で俺は死罪だ! 罠だろうが何だろうが構うものか、やってやるさ!」
絶望の淵で、男の瞳に狂気と野心の火が灯る。それを見たメイド長は、満足げに不敵な笑みを零した。
(司令官閣下はすでに内応済み。これで副官も抱き込んだ。……セイラント領の『本番』を始めましょう)
彼女は、何も知らずに怯える侯爵の元へと、足早に戻っていった。
同日。セイラント侯爵邸 アクルの自室
「アクル様。どうやら、向こうの盤面が動いた模様です」
控えていたラントからの報告を受け、私は静かに本を閉じた。
放った火が、油を吸って実によく燃えているようだ。
「参謀本部へ伝達。『月いづれば、その月は敵である』」
予め決めていた作戦発動の暗号を告げる。
時間は何よりも尊い。盤上の駒はすでに舞い踊り、私は王手を取りに行く。ここからの勝負は、おそらくあと十二手。
私の命令を受け、参謀本部ではやる気に満ちた将校たちが慌ただしく、しかし恐るべき正確さで兵を動かし始めていた。
「第三小隊、国境線へ移動! 隠密を維持せよ!」
窓の外、遥かワットランの空を眺めながら、私は贅沢なワインを揺らすように思考を巡らせる。
(ワットランよ。我が母が仕込んだ極上のスープに、私が用意した最高の麺。この二つが美しく絡み合った時、貴公の領地という器の中に、どのような『破滅のディッシュ』が完成するか……楽しみにしておくといい)
前世の政治家としての老獪な笑みを浮かべ、私は次々と舞い込む報告書に、冷徹にサインを走らせるのだった。




