王手への1歩
皇帝暦1899年4月12日、昼。城下町・演説広場。
「姫様の生誕祭に、一体なんの発表があるんだ?」
「噂じゃ、ご婚約の儀が行われるらしいぜ」
集まった群衆のざわめきが最高潮に達したその時、ファンファーレの音が響き渡り、皇帝ワイント・カント・ラップ5世が登壇した。一瞬にして広場が静まり返る。
「忙しい中、集まってくれた民たちに感謝する。……今宵、我が娘サンは婚約の義を交わす! その相手は隣にいる、セイラント・アクルである!」
ドッと地鳴りのような歓声が上がった。「姫様を幸せにしろよ!」という祝福の声が刺さる。大衆の面前での公式発表。
これで、もうこの政略婚約の後戻りはできない。覚悟を決める瞬間だった。
しかし、祝祭の裏では不穏な泥水も動き始めていた。市場の片隅から、奇妙な噂が耳に届く。
『アクル様は神童だが、領民の具申を一蹴する冷酷な方らしい』
『裏では民を虫ケラのように見ているとか……』
(なるほど。良い噂は風に乗って消えるが、悪い噂は誇張されて毒となる。誰が流した泥船か知らないが、前世の政治家を相手に拙い情報戦を仕掛けたこと、後悔させてやろう)
同日、夜。城内舞踏会場。
きらびやかな光と音楽が流れる、帝国最大の社交界。ここは貴族が絆を深める場であり、同時に、互いを泥に引きずり下ろす戦場でもある。
「これはこれは、セイラント侯爵様。ご機嫌麗しゅう。ご子息が皇女殿下とご婚約なされて、もう私どものような地方貴族など眼中にないんでしょうなぁ?」
ねっとりとした嫌味を投げかけてきたのは、ワットラン侯爵夫人だ。だが、酒の入った父ドットは、その悪意に気づくことすらなく豪快に笑った。
「何を仰いますか夫人! 我ら諸侯は帝国の為に尽くす同志! 景気が良い時こそ、困った時は互いに頼り合うべきですぞ! 何かあればいつでも我が領へ来てください!」
「そ、その時はよろしゅう頼みます……」
裏を読む策略家にとって、直球の正論ほど調子を狂わされるものはない。完璧に論点をずらされ、呆気にとられた夫人はそそくさと退散していった。ある意味、父上は無敵の政治家かもしれない。
その時、会場に静寂が訪れた。二階からの階段を、私たち王族一行が降りていく。絶対的権力の縮図を前に、貴族たちが一斉に頭を垂れた。
「皆の衆。本日は娘の生誕を祝うとともに、婚約の儀を執り行う。皆、励むように」
皇帝が放つ圧倒的な威圧感の中、隣のサンが小声で私に囁いた。
「……アクル様は、わたくしとの結婚は、嫌でしたか?」
不安げに揺れる瞳。私は彼女の耳元に、そっと声を落とした。
「サン。君以外の女性を婚約者に迎えるなど、真っ平御免だよ」
(政治的カードとしても、君個人の人格としてもね)
その瞬間、サンの顔にパァッと大輪のひまわりのような笑顔が咲いた。
この国の婚約の儀は、観客の視線を一身に浴びながら、婚約者同士で一曲踊るというものだ。緊張で微かに震えるサンの手を引き、会場の中央へ進む。
「サン。これが無事に終わったら、君の好きなことを一つだけ叶えてあげよう」
「!」
緊張をほぐすための報酬だったが、彼女の目の色が変わった。
音楽が始まり、私たちはステップを踏む。かつて私の足を踏み抜いて出血させた頃とは見違えるほど、今日の彼女のダンスは完璧だった。
曲が終わり、息を弾ませながら「約束、覚えてますよね!?」とでも言いたげな顔で見つめてくるサンに、私は微笑んだ。
「大変美しかったですよ、私の婚約者どの」
彼女の瞳が、太陽を見つめたかのように光り輝く。
その微笑ましい光景の向こう側で、もう一つの、より冷徹な戦争が勃発していた。母ワットと、ワットラン侯爵の直接対決だ。
「これはこれは、ワットラン侯爵様。最近は景気もよく、大変楽しい日々を過ごしておりますわ」
淑やかな笑みを絶やさない母上だが、その中身は元文官の超エリートだ。
「噂に聞きましたが、最近ワットラン領では、重税による反乱の気運が高まっているとか。……大丈夫ですこと?」
「……! 大丈夫ですとも、我が領には鉄壁の騎士団がおりますからな!」
食い気味に返す侯爵の額に、青筋が浮かぶ。母上はそれを優雅に扇子で隠しながら、致命傷を叩き込んだ。
「そうですか。困った時は助け合いですからね。何かあれば我が夫にお伝えあそばせ。必ずや、力になって差し上げますわ」
あからさまな格付け。完全に言い負かされたワットラン侯爵は、顔を真っ赤にして他の貴族へ八つ当たりをしに去っていった。我が母ながら、恐ろしい切れ味だ。
その様子を、バルコニーから見下ろす皇帝ワイント・カント・ラップ5世の目が細められる。
(さて、ワットランはどう踊るかな? ……ラントよ。すべての駒は揃えた。今宵から盤上で踊りたまえ。我が道を示し、私を名君として歴史に残させるのだ)
皇帝の脳裏で、一体どのような絵図が描かれているのか。
社交の夜は長い。そして、乱世の幕は音もなく上がり始めていた。




