企みと転換
皇帝暦1899年3月1日。
ワットラン地方、ワットラン侯爵執務室。
「例の作戦は、どうなっている?」
ワットラン侯爵リンク・ランクは、眉間に深い皺を寄せ、獲物を狙う猛獣のような目で問いかけた。
「はっ……作戦の進捗ですが、妨害工作は『失敗』と見てよろしいかと……」
部下と思われる黒ずくめの男が、喉を詰まらせながらそう絞り出した。セイラント領の経済を揺るがすための工作員は、アクルが配置した農商業大臣カインドの防諜網によって、実行に移る前にすべて捕縛されたのだ。
「ほう? 失敗か。まだ表立って実行もしていない段階で、失敗。……よく言ってくれるじゃないか、お前は」
不気味な笑みを浮かべ、侯爵がゆっくりと歩み寄る。コツコツと無機質な革靴の音が響き、部下の目の前で止まった。その手が、男の胸ぐらを優しく、しかし逃げられない力で掴む。
「君は我が領土の味方かね? それとも、私の『敵』かね?」
脅し、恫喝、精神的な蹂躙。その圧倒的な圧迫感に、黒ずくめの男は恐怖で全身から滝のような冷や汗を流し、ただ服を濡らすことしかできなかった。
「……では、引き続き頼むよ」
侯爵はそれだけ言い残し、冷酷に部屋を去った。残された男は、恐怖のあまりその場に崩れ落ちた。
同月4月12日。国都、ワイント王城。
ドタドタと、およそ皇族らしからぬ分かりやすい足音を立てて、一人の少女が廊下を走っていた。
「お父様! お父様! 本日はわたくしの誕生日ですわ!」
溢れんばかりの笑みを浮かべ、彼女は部屋のベッドに腰掛けていた男へと声を弾ませる。
「今日はわたくしのために、すべての貴族が王城に集まりますの! 皆がわたくしの成長を見て喜ぶ姿が、目に浮かびますわね! そして――皆の前で、アクル様との婚約を堂々と宣言してやるのですわ!」
嬉々として夢を語る少女。
「ずっとわたくしの夢だったんですもの! やっと、やっと手に入りますわ!」
実にお転婆で、そして実におバカな皇女様である。彼女は興奮のあまり、完全に忘れているのだ。王城の構造的に階数を間違え、王家の居住区ではなく、我がセイラント侯爵家が拝領している私室に飛び込んできたということを。
……私の、この呆れたような視線に気づき、お転婆な皇女の顔からみるみる血の気が引いていく。
「……皇女様」
「ぇ……?」
蚊の鳴くような声が絞り出される。
「皇女様。王城のこの階に、我が侯爵家の部屋があるのはご存知ですか?」
「あ、当たり前でしょう! わたくしたちの部屋の下に、侯爵の方々の部屋があるのは知って……あ」
ここでようやく気づいたらしい。朝から調子に乗って早起きし、朝食を終えて自室に戻る際、完全に階数を間違えていたことに。
王城は上から王家、召使い、侯爵、伯爵と部屋が並び、内装に大差はない。だが、この階数こそが帝国の権力の縮図なのだ。
「サン。調子に乗るのも大概にしなさい。これがもし、我が家ではなく別の侯爵……例えばワットランの部屋だったらどうするつもりだったんだ?」
あえて「皇女殿下」ではなく、初めてその名を呼び捨てにした。
私の低い声に、彼女の脳内は嬉しさと恥ずかしさ、そして不敬を叱責されているという反省の念が入り混じり、完全にキャパシティをオーバーしたようだ。
「……どこから、聞いていたの?」
目に大粒の涙を浮かべ、サンが消え入りそうな声で問う。
「――『お父様! からかな』」
わざわざ彼女の口真似をして答えてやると、サンは顔をリンゴのように真っ赤にして、脱兎のごとく部屋を飛び出していった。
前日入りしたと思えば、朝から実にはた迷惑な皇女様だ。私の未来の婚約者として、もう少し落ち着きのある淑女になっていただきたいものだが……。
「ラント、支度をしよう」
私が声をかけると、彼女は「一体どこに隠れていたんだ」と思うような壁の隙間から、何食わぬ顔で姿を現した。
「かしこまりました、アクル様」
ラントは恐るべき手際で私の身支度を整え、サンが残していった朝食の残骸などの『証拠』を瞬時に隠滅していく。
「……王城の私室とはいえ、隠密行動が染み付きすぎじゃないか、ラント?」
呆れる私を鏡越しに見ながら、ラントは静かに微笑んだ。
さあ……準備は整った。今宵の生誕宴は、一体どんな化かし合いが待っているのか。実に愉しみだ。




