青い鳥
教室と呼ぶには狭い部屋だった。マリーがかつて暮らしていた家のリビングくらいしかない。しかし、生徒の数も少なく、十人程度しかいないため、息苦しさはない。むしろちょうどいいサイズと言えた。ただ、座席の数と生徒の数が合っておらず、空席が目立つ。ここに来る途中、クリスが言っていたように生徒の入れ替えが頻繁にあって、いくつか余裕を持たせているのだろう、とマリーは推測した。
黒板に教卓、それに机が並ぶだけの質素な教室だ。とくに変わったところはない。あえて奇妙な点を挙げるとすると、シンプル過ぎることくらいだろうか。ロッカーとか時計とか、世界地図とか、学校の教室にあって然るべきものこの部屋にはない。この学園では、個室にしろ、食堂にしろ、教室にしろ、なんでも質素につくられているらしい。
マリーの席はいちばん後ろの窓際だった。成績のよい生徒が大きい番号のクラスに入れられるとクリスが言っていたとおり、この十組には、リンダのような問題児やキララのようなにぎやかな子もいない。みんな、おとなしく授業を受けている。
教壇で女性の先生が授業をしている。園長先生や猫目の職員みたいに威圧的な雰囲気はないが、冷たい感じはおなじだ。ただ、その冷たさは、無関心に近い。
「『RE』はラテン語の接頭辞で、『返す』や『戻る』、あるいは『再び』という意味を表します。したがって、『RE』から始まる言葉には、このようなニュアンスを含むものが多いです。例えば、『Recall』は『思い出す』、記憶の奥に埋もれていたものが再びよみがえるということですね。他にも、『Return』は『帰る』、『Reaction』は『反応』といった具合です」
先生はここまで説明すると、「それでは、今度は、みなさんに考えていただきましょう」と教室の中を見回し、マリーのところで留まった。
「それじゃ、今日、新しく来られたマリーさん。あなたに答えていただきましょう。『RE』から始まる単語ですよ。きっとあなたはこういう問題がお得意でしょうから」
なぜ先生は、マリーが得意だと判断したのかわからなかったが、実際、マリーにはたわいのない問題だった。
マリーは立ち上がり、答えた。
「『Reiterate』。『繰り返す』という意味です。それから、『Restore』は『返還する』。あと、『Response』は『応答』を意味します」
頭に浮かんだ言葉をポンポンと口に出す。
「はい、大変よくできました」
先生が拍手し、他の生徒たちもそれにならって小さく拍手をした。
確かに今まで受けたことのない授業だ。これもクリスの言ったとおり、何かを教えるというよりは、生徒の思考能力を鍛えることに主眼が置かれているらしい。脳の訓練に近い。何を目的とする授業なのかもわからないが、難しくもなんともない。この程度であれば、他の生徒に後れを取ることはまずないだろう。
マリーは密かに胸をなで下ろし、着席した。
最前列に座るクリスを見る。
背筋を伸ばし、真っ直ぐ黒板を見つめるクリスの後ろ姿を目にすると、マリーは底知れぬ不安に襲われた。
誰も信じるな。
自分を保て。
彼の言葉がよみがえる。
凜とした後ろ姿を見ていると、彼が冗談や悪戯ではなく本気でそう言ったのだと思えてくる。
誰も信じるな、自分を保て。マリーは胸の内で繰り返し、その意味を探ろうとするのだけれど、言葉の表面上の意味以外のことは掴めそうになかった。
チャイムが鳴り響き、特に難しくもない学園での最初の授業が終わった。
席を立ったマリーはクリスを追いかけた。
クリスは教室から出ようとしているところだった。
「クリス」とマリーは声をかけた。
クリスが振り返り、柔らかい笑みを浮かべた。
「初めての授業はどうだった?」
「ええ、あなたの言うとおり、不思議な授業だったわ。けれど、これなら何とかやっていけそうよ」
「そうか。それはよかった」
「ところでクリス、さっきの話なんだけど……」
授業の前に聞かされたことをもう一度確認したかった。だが、マリーがこう切り出した途端、「これからどうするんだい?」とクリスが遮るように訊ねた。
マリーは「えっ」と質問を引っ込め、「まだ決めてないわ」と答えた。
「それなら、昼食まではまだ時間があるから、学園内を探索してみるといいよ。いろいろと面白いものがあるから」
「そうね。それで、さっきの……」
マリーが話を戻そうとすると、クリスは「そうだ。レクレーションルームに行ってみたらどうだい?」とまた遮った。
二度目ともなると、さすがにマリーも理解した。
彼はあの話を蒸し返す気はない。
それを悟ったマリーは、「ええ、そうね、そうしてみるわ」と答えた。
「うん、それがいい」
クリスがにっこり笑った。
「それで、あなたはこれからどうするの?」
マリーは別の質問をした。
「僕はこれから用事があって、行かなければならないところがあるんだ」
クリスは笑みを浮かべたまま答えた。
どこへ? と訊ねようとして、マリーは思いとどまった。
彼が答えをはぐらかしたということは、この質問にも答える気はないということなのだろう。
マリーは「そう」とだけ答えた。
「それじゃ、マリー、午後の授業でまた会おう」
クリスは素っ気なく言い残すと、くるりと身を翻して歩き去った。
クリスは一年前からこの学園にいると言っていた。他に友人や遊び仲間がいてもおかしくはない。けれど、食堂で見せた、まるでずっと探していた人をやっと見つけた、と言わんばかりのあの笑顔を見せられたあとでは、いまのつれない態度は少なからずショックだった。
「またね……」
クリスに届くはずのない声でそう答え、マリーもとぼとぼと廊下を歩き出した。
いまから昼食までどこで暇を潰そうか。考えてみたが、入園したばかりのマリーにその方法が見つかるはずもない。クリスにアドバイスに従い、とりあえずレクレーションルームにでも行ってみようと廊下を歩いていたら、三組の教室から出てくるキララの姿が目に入った。
マリーに気づくと、「マリー」とキララが駆け寄ってきた。
「キララ」
その姿を見ると、救われたような気がして、マリーは声を弾ませた。
「初めての授業はどうだった?」
キララがクリスとおなじことを訊く。
「ええ、楽しかったわ」
「それはよかったわ。それで、マリーはこれからどうするの?」
「何もすることがないの。それで、レクレーションルームにでも行ってみようかと思っていたところよ」
「それじゃ、キララと一緒に来ない、マリー」
キララが唐突に誘う。
「一緒にってどこへ?」
「パンの秘密を教えてあげる」
キララはいたずらっ子のような笑みを作った。朝食のとき、あげたパンの使い道を教えてくれるらしい。
「パンの秘密?」
マリーは訊き返す。
「そうよ。誰にも教えていない、キララの秘密よ」
キララが自分にだけ秘密を教えてくれようとしている。そう思うと、マリーは嬉しくなって、「ぜひ知りたいわ」と頬を緩めた。
「それじゃ、行きましょう、マリー」
キララはマリーの返事も待たずに駆け出した。
でも、答えは最初から出ている。それ程魅力を感じないレクレーションルームに行くよりも、キララと一緒にいたほうが楽しいに決まっている。
「待って、キララ」
声をかけマリーは彼女の後を追った。
キララに連れて行かれたのは、生活棟にある彼女の個室だった。
キララの部屋はマリーの部屋の二つ隣だった。すぐ近くで彼女が寝起きしているのだと思うと、マリーは妙な心強さを覚えた。
彼女の部屋もマリーの部屋と同じような造りだった。つまり、最低限の生活用品だけが並んでいるシンプルな部屋だ。けれど、キララのほうが学園生活は長いから、そのぶん物も多く、生活のにおいがあった。本棚には絵本が並び、机の上にはエンピツやノートが置かれている。ベッドの上には、ミチルの他にもたくさんのぬいぐるみやお人形が座っていた。
「パンの秘密って、なんなの?」
部屋に入るなり、マリーは訊ねた。
「ちょっと待ててね」
キララは意味深な笑みを浮かべると、丁寧にミチルをベッドに座らせ、窓際に移動した。
何をするのだろうとマリーが見守っていると、キララは窓を開け、「モーリス、モーリス」と外に向かって呼びかけた。
キララの突然の行動にちょっと驚きながら、マリーも窓際へ近づいた。
「何をしているの?」
マリーは訊ねた。
「もうすぐ、来るわ」
キララはそう簡単に答えると、また「モーリス、モーリス」と呼びかける。
マリーも外に目を向けた。
キララの部屋から見える景色もマリーの部屋とおなじようだった。正面に樫の巨木がそびえ立ち、その向こうには、丘を越えて山並みが連なっている。
「モーリス、モーリス」
キララは呼びかけ続ける。しばらくすると、「来たわ」と声を潜めた。
「何が来たの」
マリーもつられて声を潜めた。
「ほら、あそこよ」
キララが山のほうを指さしている。
キララの指さすほうに視線を向けると、何かがこちらに飛んでくる。
「あれは……」
マリーは呟いた。
「そうよ、あの子がモーリスよ」
キララは答えた。
山のほうから飛んで来た鳥は目の前の樫の木の枝に止まった。
昨日見た、あの鮮やかな青色の鳥だった。
「あの子、モーリスってう名前なのね」
マリーは言った。
「そうよ。あなたモーリスのことを知っているの?」
「ええ、昨日、わたしの部屋にもきてくれたの」
「そうだったの。マリーは、もうモーリスと出会っていたのね」
「ええ」
「可愛いでしょう」
キララは自慢げに言うと、今朝、マリーがあげたパンを細かく砕き、窓のサッシにぱらぱらと撒いた。それから、マリーに部屋の中に下がるよう手で合図し、自分もおなじように後ろに下がった。
部屋の隅からじっと窓のほうを見つめていると、モーリスが、樫の木から窓のサッシに飛び移り、パンくずを啄み始めた。
「これが、パンの秘密なのね?」
マリーは小声で訊ねた。
「ええ、そうよ。こうして、こっそりモーリスにご飯をあげているの。モーリスはキララが学園に来たときからのお友だちなのよ」
「そうだったのね」
「モーリスはね、ずっとキララのことを見守ってくれているの。キララが辛い目にあったときや、悲しい思いをしたときに、そっと慰めに来てくれるのよ」
「じゃあ、昨日、モーリスはわたしのことも慰めに来てくれたのね」
「ええ、そうよ。モーリスはとても優しい子なの。悲しんでいる子供がいると、遠いお山からやってきて優しくお歌を歌ってくれるのよ」
「わたし、いきなり知らない場所に連れて来られて、とても不安だったわ。だけど、モーリスの声を聞いて、少しだけ元気になれたの」
マリーは言った。その後、リンダにどんぐりを投げつけられたことは黙っておく。
「モーリスはね、マリーのことを元気づけるために来たんだと思うわ。モーリスは、いい子のところにだけに来てくれるのよ」
キララはそう説明して、にっこり笑った。
そのあいだも、モーリスはパンくずを食べ続け、やがて、食べ終えると、じっと見つめるふたりに向かって元気よく鳴いた。
「可愛い鳴き声」
マリーは言った。
「モーリスは、ありがとうって言ってるのよ」
「きっとそうだわ」
マリーがそう言うと、モーリスは羽根を大きく広げ、バサリと音を立てて、飛び去っていった。
ふたりは、お山に帰ってゆくモーリスをじっと眺める。
「あなたの秘密を教えてくれてありがとう、キララ」
モーリスの姿が見えなくなると、マリーは声を元に戻して言った。
「いいのよ、マリー。だって、マリーとキララは、もうお友だちでしょ」
キララはためらいなくマリーのことを、お友だちと言った。
「うれしいわ、キララ。あなたと出会えて、わたし、本当にうれしいの。わたし、ずっと心細かったのよ。この学園でひとりでやっていけるかって、ずっと心配だった。でも、もう安心。だって、あなたという素晴らしいお友だちができたんですもの」
「そうよ、マリー。これから楽しい学園生活が始まるのよ」
「ええ、キララ。わたしたちはずっとお友だちよ」
マリーはキララの手を握った。




