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クリスの忠告

 朝食を終え、食堂を出たマリーは、知り合ったばかりのクリス、それからキララと廊下を歩いていた。

 今朝、ひとりで食堂に向かうときは心細くて仕方がなかった。しかし、今は、こうして一緒にいてくれる子がふたりもいる。それが心強くて、マリーの足取りも自然と軽くなる。

 廊下を進みながら、クリスは学園のことを色々と教えてくれた。

「朝食が終わったあと、ぼくらは授業を受けなければない。授業は、お昼を挟んで午前と午後の一日二回。夕飯は夜の七時から。お風呂は二日に一度で、就寝は十時。そのあいだの時間は自由に過ごすことができる。自由時間中は、基本的になにをしてもかまわない。レクレーションルームでカードゲームをしてもいいし、図書室で本を読んでもいい。午後五時までなら中庭で軽く運動することも認められている」

 想像していたよりもずっと緩い生活だ。てっきり刑務所のような規則ずくめの窮屈な生活を強いられるのものだと覚悟していたのだが、案外、自由に行動できるらしい。

「ただし」

 気が緩みかけたマリーを、クリスの鋭い声が制した。

「自由が認められているのは、学園の敷地内においてだけだよ。敷地を出ることは絶対に許されない。一歩たりともね」

「一歩たりとも……」

「そう、一歩たりともだ」

 クリスが繰り返した。

 彼の話によると、生徒たちには一定の自由が認められている。が、それは学園内に限ったことであり、万が一にもそれを逸脱しようものなら、つまり、外へ出ようとすれば……。

 昨日園長先生が言っていた。何よりも規則が重要だと。その規則を破ったりしたら、その先どんな恐ろしい罰が待っているか想像もつかない。

 それに、昨日、パパの車でここに来るとき、マリーは見ていた。学園は、四方を高い塀で囲われている。あの塀を乗り越えて外に出ることなど、そもそも、幼いマリーには無理だった。

 だから、マリーは「わかったわ」ではなく、「わかっているわ」と答えた。

 すると、クリスは表情を崩し、満足げに頷いた。

「なに、そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。規則さえ守っていれば、居心地のいい場所だ。君もじきに慣れる」

 そう安心させるように言った。

「だといいわ」

 マリーは答えた。

 三人は校舎を出て渡り廊下を歩く。建物は大きくは二棟によって構成されていて、一方は学習棟、もう一方は生活棟と呼ばれている。両棟は中央付近で渡り廊下によって繋がれており、校舎を上から見ると、ちょうどHの形をしている。

 渡り廊下を渡りきり、三人は学習棟に入った。

 学習棟もまた古い建物だ。建物全体としては瀟洒な造りで、好意的に見れば歴史ある建造物と言ったところなのだろうが、否定的に見ると湿っぽくて陰気な場所だ。人が生活するところというより、博物館とか図書館に近い。

 学習棟に入ってからもクリスは説明を続けた。

「この学園では色々なことを勉強するんだけど、国語とか算数とか、決まった科目はないんだ。どちらかと言うと、考える力を養うような学習だ。クイズとかパズルに近いかな。最初は戸惑うかもしれないけれど、案外、面白いものだよ。退屈しないし、ノートを取る必要もないし、教科書を読む必要もないしね」

「それじゃ、長い講義もないのね」

「そういうこと。それに試験のようなつまらないものもない」

「それは素敵ね」

 マリーは朗らかな声で答えた。

「生徒は、学力に応じて十のクラスに振り分けられる。だから、年齢が高くても学力の足りない子は下のクラスに回されるし、逆に、年齢が低くても学力の高い子は上のクラスにいける。それから、ここが、この学園のちょっと変わったところなんだけれど、学力の高い生徒ほど数字の大きなクラスに入れられるんだ」

 マリーは昨日、十組に編入されると聞いていた。ということは、最も優秀な生徒が集まるクラスに入れられたということになる。

「キララは三組なんだ」

 マリーの隣をちょこちょこ歩くキララはちょっと寂しそうに言った。

「仕方がないよ。キララはまだ小さいんだから。すぐに僕とおなじ十組に入れるさ」

 クリスが慰めるように言った。その言葉から、クリスもマリーとおなじ十組だとわかり、マリーは密かに胸を躍らせた。

「本当?」

 キララが期待のこもった声で訊く。

「本当だとも。そのためには、しっかりお勉強するんだよ」

「うん、わかった。キララいっぱいお勉強する」

「よし、その調子だ、キララ」

「だけどね、マリー」キララがマリー向かって声を潜めて言った。「意地悪リンダは一組なんだよ。キララより年長さんなのに」

「こら、キララ。他の子の悪口を言っちゃだめだろ」

 クリスがたしなめると、キララがペロッと舌を出した。

 ちょうどそのとき、三組の教室が見えてきた。

「それじゃ、キララの教室はここだから、行くね」

 キララは元気な声でそう言って駆け出した。

「うん。ありがとう、キララ」

 お礼をいうような場面ではないし、なにに対するお礼なのもかも不明だが、どういうわけか彼女にお礼を言いたくなった。

 キララは特に気にする様子もなく、「うん、じゃあ、またね」と手を振って、三組の教室に入っていた。

 キララがいなくなり、クリスとふたりで廊下を歩く。ふたりになると、マリーは途端に緊張し始めた。

「キララって可愛い子ね」

 沈黙が訪れる前に、マリーから話し出した。

「キララはみんなの人気者だよ」

 クリスが笑顔で答えた。

 その笑顔にマリーは勢い込んで話し始めた。

「わたしね、昨日からずっと不安だったの。パパとママに突然、学園に入れられ、ひとりぼっちでずっと心細かったわ。頼れる人はいないし、園長先生はおっかないし、猫目の職員さんも気味が悪いし、リンダには意地悪をされるし、とても不安だったの。でも、今は平気。あなたやキララと知り合うことができて、今はほっとしている。ううん、それだけじゃないわ。これからの学園生活が素敵なものになるんじゃないかって、そんなふうにも思うの」

 緊張していたためか、マリーはつい余計なことまで口走ってしまった。話し終えて、ちらりとクリスを見ると、黙って聞いていたクリスの顔から柔和な笑みが消え、険しい目つきでじっと前方の一点を見つめていた。

 その様子に、マリーは口を引き結んだ。

「ごめんなさい、クリス。わたし、調子にのって変なことを言っちゃったわ」

 マリーが慌てて謝ると、「そんなことじゃないだ、マリー」とクリスは答えた。それから深刻な口調で「いまから君に、大事なことを伝えるね」と続けた。

「大事なこと?」

 クリスの突然の言葉に、マリーは当惑しながら訊き返した。

「うん、とても大事なことだから憶えておいてほしい」

「いったい何なの、その大事なことって?」

「いいかい、マリー。ここでは誰も信じてはいけないよ。先生も職員も、それから生徒たちも、だ。わかったね」

 クリスが脅すように言った。

 なぜクリスがいきなり、こんなことを言い出すのか、マリーにはまるで理解できなかった。それに、誰も信じてはいけない、とは一体どういうことだ? 園長先生や意地悪リンダはともかく、キララや、それにクリスのことまで信じるな、と言っているのか?

 狼狽するマリーに向かって、クリスは話を続けた。

「それから、もう一つ。ちょっと理解しづらいかもしれないけど、肝に銘じておいて欲しい。君は自分を保たなければならない。これから、この学園で君は、君の理解を超えた出来事に遭遇するだろう。君は焦り、混乱するだろう。だけど、君は決して自分を見失ってはいけない。強い意志を持って自分を保ち続けるんだ」

「自分を保つ……」

「そうだ」

「よくわからないわ、クリス」

「そのうちわかる。いまは、この二つのことだけを憶えておいてほしい」

 クリスは正面に顔を向けたまま言い加えた。

 クリスの話を要約すると、誰も信じるな、それから、自分を見失うな、ということらしい。しかし、マリーにはクリスの忠告の意味がまるでわからなかった。なぜそうしなければならないのか、そうしなければ一体どうなってしまうというのか、一向に話が見えてこない。

 要領を得ないクリスの話にマリーは返す言葉も見つけられなかった。

 マリーが黙り込んでいると、クリスは先ほどのやさしい笑顔に戻り、「話はそれだけだ。さあ、早く教室に行こう。遅刻すると先生に叱られてしまう」と陽気に誘いかけた。


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