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学園の外

 マリーとキララは、壁に手を這わせ、暗い通路を慎重に歩く。

 ぽたりぽたりとあちこちで水滴が落ちる音がする。床にも水が広がっているようで、時折、靴先が水にぬれた。

 この通路の先には、外の世界が待っている。

 学園から逃げ出すことができる。

 けれど、マリーはそのことを純粋に喜ぶことはできなかった。

 ジョーが犠牲になってしまった。自分とキララを逃がすため、身を挺してクリスに立ち向かっていった。ジョーは無事だろうか? クリスや職員たちに酷い目に遭わされてはいないだろうか? そのことが、気がかりだった。

 それからもうひとつマリーには気になることがあった。

「キララ」

 マリーは前を歩くキララに声をかけた。声が通路内に反響した。

「何?」と言うキララの声も反響した。

「あなた、どうしてこの通路の場所がわかったの?」

 マリーは訊ねた。

 キララは答えない。

「ねえ、キララ」

 もう一度、声をかけると、ようやくキララが答えた。

「壁から風が吹いていたからよ。あなたたちがクリスと言い争っているあいだに気づいたの」

 キララは答えた。

 本当だろうか? 

 キララの話を信じていいのだろうか? 

 そんなに簡単にこの隠し扉を見つけ出すことができるだろうか?

 腑に落ちないところもあるが、現にキララはこうして隠し通路を見つけたのだから、彼女の話を信じるしかない。

 だが……。

 とマリーが考えているうちに、通路の行き止まりに到達した。

 ドアがある。

 ドアの向こうから、うねるような嵐の音が聞こえてくる。

 この先は外だ。

 マリーはドアノブに手をかけた。時計回りに捩ると、錆びたドアノブが軋み音を立てて回った。息を詰め、ドアを押し開けた。

 同時に強風が入り込み、身体がよろけた。

 両腕で顔を守り、腕の隙間から外を見る。

 外だ。

 横風が吹き付け、目の前の木々を激しく揺らしている。真っ黒の雲が夜空を猛スピードで流れていく。大粒の雨が、風にあおられ斜めに降りつけている。

「外よ、キララ」

 マリーは右腕で顔を覆ったまま、大声で叫び、外に踏み出した。

 たちまち髪も洋服もびしょ濡れになった。

 マリーは後ろを振り返った。学園を囲う高い塀が背後にそびえている。

 つまり、自分たちは壁の外にいるのだ。

「キララ、学園を出ることができたわ。脱出に成功したのよ。わたしたちは自由なのよ」

 雨に打たれながら、マリーは歓喜の声を上げた。

 リンダは殺された。

 ケンもトミーも死んでしまった。

 ジョーはどうなったかわからない。

 多くの仲間を失い、多くの人々を犠牲にして、自分は学園から逃げ出すことができた。キララとふたり、たったふたりだが、これまで誰もなし得なかった脱出に成功したのだ。

 胸が張り裂けそうだった。

 感極まり涙があふれてきた。

 マリーは涙と雨の頬を濡らして、今潜り抜けてきた通路のほうを見る。

 キララはそこに立ったまま、外に出ようとしない。

「キララ、早くいらっしゃい。わたしたちはもう自由なのよ」

「マリー、ごめんなさい」

 マリーの言葉に、キララはちぐはぐな答えを返した。

「どうしちゃったの、キララ? 何を言ってるの?」

「キララ、嘘をついたの」

「嘘? 嘘って何のこと?」

「本当はね、この通路はキララが見つけたんじゃないの」

「何の話をしているの?」

「クリスが教えてくれたの」

「クリス? クリスにこの通路の場所を聞いたっていうの?」

 一瞬、周囲が明るくなり、稲妻が走った。遅れて、雷鳴が轟いた。

「そうよ、マリー」

 クリスがキララに隠し通路の場所を教えた。

 いつ? 

 何の為に?

「マリー、ごめんなさい」

 キララが、ごめんなさいを繰り返す。

「わかったわ、キララ。あなたは嘘をついた、でも、そんなことはもうどうでもいいのよ。わたしたちは外に出られたんだから、そんなこと気にする必要なんてないわ。だから、早くこっちにいらっしゃい」

「そうじゃないの、マリー。ダメなのよ」

「何がダメなの、キララ? 早くしないと、見つかっちゃうわ」

「ダメなのよ、マリー。キララは行けないの。キララたちはここでしか生きていけないの」

 この期に及んで何を言い出すのだ。

 ジョーが身体を張って助けてくれた。散々苦労してようやくここまで来た。その最後の最後で、怖じ気づいたというのか。マリーは苛立った。このとき初めてキララに対して、怒りを覚えた。

「キララ、何を言っているの? 早く来なさい」

「ダメよ、マリー。キララ、行けないわ」

「早く」

「ダメなのよ」

 押し問答を続けていると、また、稲光が走った。

 稲光に照らされたキララの姿を見て、マリーは絶句した。

 それはマリーの知っているキララではなかった。無邪気で天真爛漫で、可愛らしい少女ではない。キララは大人の姿に変わっていた。いや、大人どころではない。背は曲がり、髪の毛は白く、おとぎ話に出てくる悪い魔女のようだった。

「ごめんね、マリー。これ以上先には行けないわ。わたしは外の世界では生きて行けないの。ごめんね、マリー。ごめんね」

 何が起こっているのだ?

 呆然と立ち尽くすマリーを、突然、眩い光が照らした。

 自動車のフロントライトだった。巨大な怪獣の目のようなふたつの光が闇を照らし、こちらに近づいてくる。あっという間にマリーの前までくると、キキッという鋭い音を立てて自動車が止まった。

 マリーは目を細く開いて、自動車を見る。

 助手席と運転席が開き、ふたりの人物が降りてきた。

 園長先生と猫目だ。

 マリーは背後を振り返り、キララを見た。キララは、まるで悪い魔法が解けてしまったかのように、もとの少女の姿に戻っている。

「どういうことなの、キララ?」

 マリーは詰め寄った。

「ごめんね、マリー。わたし、全部、思い出したの。こうするしかなかったの」

 キララが言った。その言葉でマリーは理解した。

 なぜ、クリスが今夜あの場所にいたのか。その理由がわかった。いくら頭の切れるクリスでも、今夜、あの時間に、マリーたちが脱走することまで知れるはずがない。協力者がいたのだ。クリスに脱走計画を伝えたのは、目の前にいるキララだ。あのとき……キララが人形のミチルを取りに戻った、あのとき、キララはクリスに密告した。クリスは、あの地下室で自分たちを捕らえることができなかった場合のことを考え、通路の場所をキララに教え、園長先生たちにも脱走計画のことを伝えた。そうして、園長先生はここで待ち伏せしていたのだ。

「ようやく見つけましたよ、マリーさん」

 園長先生がにじり寄ってくる。

 雷光に照らされ、園長先生と猫目の姿が白く浮かび上がる。

 園長先生は目を吊り上がらせ、怒りを露わにしている。

 その傍らで、猫目はいやらしい笑みを浮かべていた。

「もう二度とこんなことをしないよう、今度こそ、きっちり分からせて差し上げますからね」

 マリーは動けなかった。

 もう終わりだ。

 もう少しだったのに。

 もう少しで逃げ出すことができたのに。

 もう少しでパパとママに会えたのに……。

 しかし、このときマリーの胸に去来したのは諦めや悲観とは真逆の感情だった。

 それは怒りだった。

 クリスに裏切られた。

 ジョーは捕らえられてしまった。

 キララにまで嘘をつかれた。

 そして、今、自分は園長先生と猫目は学園に殺されそうになっている。

 こんなことが許されていいのか。

 こんなことで終わってしまっていいのか。

 こんなところで諦めてしまっていいのか。

 マリーは自身の体温が急激に上がっていくのを感じた。心臓が熱い血を送り出し、抑えきれない反発の衝動が身体中に漲ってゆく。

 諦めない。

 最後の最後まで抵抗する。

 たとえ殺されるのだとしても、その直前までもがいてやる。

 マリーは夢中で園長先生に飛びかかった。

 マリーが反撃してくるとは予想もしていなかったのだろう、園長先生はあっけなく地面に尻餅をついた。

 猫目のほうも、マリーの不意打ちに即座に反応できず、園長先生を助け起こすべきか、マリーを捕まえるべきか迷っている。

 マリーはもたついている猫目も押しのけ、そのまま一気に駆け出した。

「待ちなさい、マリーさん」

 後ろから園長先生の悲鳴にも似た叫び声が聞こえてくる。

 マリーは全力で走った。

 頬にぶつかる雨が痛いほどだった。泥濘んだ地面に足を取られ、何度も転びそうになった。手足がちぎれてしまいそうだった。内臓が破裂してしまいそうだった。呼吸が止まってしまいそうだった。

 それでもマリーは足を前に出し続けた。

 やがて、林の中に入った。

 人の気配が背後から迫ってくる。すぐ後ろにいるようにも思えるし、ずいぶんと引き離したようにも感じる。が、悪意を練り固めたようなどす黒い気配が自分を追っていることだけは、背中で感じられた。

 林に入ってもマリーは走り続けた。

 強風に木々が揺れ、まるで地面が震えているようだった。

 木の枝が腕や顔に当たり、切られるような痛みを感じた。

 やがて、林の終わりが近づいてきた。

 木々の隙間から開けた場所が見通せる。

 あそこまで行けば逃げ切れる。

 そう思い、最後の力を振り絞った、その瞬間、何かに足を取られた。

「あっ」と小さく声を上げたときには、身体が宙に浮き、天地がひっくり返っていた。

 地面から張り出した木の根に足をひっかけ、転倒したらしかった。

 マリーは倒れた勢いのまま、林の外まで転がり出た。

 四つん這いの体勢で、顔を上げた。

 唖然となった。

 荒れ狂う濁流が目の前に立ちはだかっていた。普段はせせらぐ程度の小川なのだろう。この嵐が、穏やかな流れを凶暴な奔流に変えてしまっていた。

「そんな……」

 マリーは思わず声に出した。

「どこだ、どこに行った!」

 後ろから声が聞こえてきた。

 猫目の声だとすぐにわかった。

 マリーはついに事切れてしまった。立ち上がる気力も湧いてこない。おまけに意識も朦朧としてきた。

 ここまでしか来られなかった。

 飛ぶことはできなかった。

 鳥にはなれなかった。

 モーリスのようにはなれなかった。

「どこに行ったの?」

「こっちのほうです」

 ぼんやりする頭に、ふたりの会話が届く。

「だから言ったでしょ、早くやってしまうべきだって」

「今はそんなこと言ってる場合ではないでしょう」

「とっ捕まえたら、今度こそ、きっちり殺してやりますよ」

「わかったから、早く見つけなさい」

「どこに行きやがった、あの、バ……え、何だ、何でお前がこんなところにいる!」

「どうしたの?」

「やめろ、何をする」

「ちょ、ちょっと、何、何があったの。あ、あなた……あなたがなぜここに? 何をしているの、ちょ、やめ、ああ」

 ふたりに何か異変が起こったようだった。

 その後、鈍い音が二回聞こえ、ふたりの会話が止まった。

 泥を踏みしめる足音が近づいてくる。

 大きな人影が見えてきた。

 誰……?

 そう思った直後、マリーの意識は途絶えた。

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