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クリスの考え

「クリス!」

 マリーは驚き叫んだ。

「やあ、マリー。それに、ジョー。ああ、キララもいたんだね」

 クリスは余裕たっぷりにそう言うと、ゆっくり近づいて来た。

「クリス。何で、お前がここにいるんだ?」

 ジョーが凄んだ。

「やっと口をきいてくれたね、ジョー。何しろ君は、あの物置小屋の一件以来、ずっと僕のことを無視していたからね」

「そんなこと、今はどうでもいいだろう。なぜお前がここにいるんだって訊いているんだ」

 ジョーが問いかけ、クリスは金色の髪を優雅に掻き上げ答えた。

「僕はなんでもお見通しなんだよ。無論、君たちが今夜ここに来ることも知っていた」

「知っていただと?」

 クリスに向かって行こうとするジョーを、マリーは引き止めた。

「クリス、あなたはわたしたちが今夜ここに来ることを知っていたの?」

 マリーは冷静な声で、ジョーの質問を繰り返した。

「うん、知っていたよ、マリー」

「どうやって知ったの?」

「たとえマリーでもそれを教えることはできないな」

 クリスは軽口を叩くように言った。

「わかったわ。それじゃ、わたしたちが今夜脱走することを知っていて、なぜ、あなたは何も手出ししなかったの?」

「そのほうが面白いだろ?」

「面白いだと?」ジョーが言う。

「ああ、そうさ。面白い、愉快だ。それに刺激的だ」

 クリスが、らしからぬ嫌らしい笑みを浮かべた。

「お前、さっきから何を言っているんだ?」

 要領を得ないクリスの話にジョーが険しい表情で訊ねる。

 クリスは顎を持ち上げ、視線を遠くに向けて話し出した。

「僕はね、ジョー。とっくの昔にこの学園から逃げ出すことを諦めているんだ。いや、正確に言うと、外の世界で生きていくことはできないって悟ったんだ」

「外の世界で生きていけないってことは……?」

 マリーは恐る恐る訊ねた。

「そうだよ、マリー。君の推測どおりだ。外の世界では大きな戦争が起きている。とてもじゃないが、僕たちのような子供が生きていける環境ではない。それを理解した僕は考えを変えた。この学園で生きてゆくことにしたんだ」

「だけど、あなたはわたしたちと一緒に学園と戦おうとしていた。学園の秘密を暴こうとしていた。なぜあんなことをしていたの?」

「うん、そうだ。僕はこの学園で生きることを選択した。なのに、僕は君たちと一緒に学園の秘密を暴こうとしていた。なぜだと思う、マリー?」

「それを訊いてるんだろ、焦らさないで早く答えろ」

 ジョーが怒鳴る。

「君たちを守るためさ」

 クリスが微笑んだ。

「何だと?」とジョーは目を丸くした。「俺たちを守るためだって?」

「ああ、そうだよ」

「ねえ、クリス、きちんと説明してちょうだい」

 マリーが言うと、クリスは微笑みを湛えたまま、「もちろんだとも」と答え、手を後ろに回し、教壇に立つ先生みたいに右へ左へ歩き出した。

「この学園がどんな実験をしているか、君たちはもう気づいているね?」

 クリスが足を止めて訊いた。

「若返りの実験ね」

 マリーはたったいまたどり着いたばかりの答えを口にした。

「そうだ」クリスは深くうなずき、「君の言うとおり、この学園は若返りの実験をするための施設だ」とはっきりと言い切った。

「実際のところ、そんなことが可能なの?」

 そう結論づけたものの、確信の持てないマリーは、あらためて問うた。

「さすがに僕も実験の詳細まではわからない。だけど、理論的には不可能ではないと思っている」

 クリスは先生然とした態度を崩さず答えた。

「そんなことできるわけがないだろう」

 ジョーが横やりを入れた。

 クリスは両手を前に出し、まあまあと無言でジョーを諫めた。

「人は歳を取る。当たり前だ。では、どうやって老化が起きるのだろうか? わかるかい、ジョー、マリー?」

 クリスがふたりに訊く。

「考えたこともない」

 ジョーは言い捨てた。

「なぜ人が歳を取るか?」クリスはまた歩きながら話し出した。「最も有名な説のひとつが細胞老化だ。人間の細胞は約四十回細胞分裂すると、分裂を止めてしまうんだ。細胞分裂のたびに、テロメアと呼ばれる一見無意味な染色体が消失し、この染色体がなくなってしまうと細胞分裂をやめ細胞は自然死してしまう。細胞分裂の回数券みたいなものだね。この回数券を使い切ると、細胞は死んでしまう。これを細胞老化と呼ぶ。もし仮に、何らかの方法でテロメアを伸ばす、あるいは、テロメアの減少を防ぐことができれば、細胞老化を止めることができる。つまり、老化そのものを止められるってわけだ」

 クリスは立ち止まり、ジョーとマリーの顔を順々に見る。

「だが、これだけでは不十分だ。老化は止められるかもしれないが、細胞を若返らすことはできない。そこで、次に考えられるのがアポトーシスの制御だ。アポトーシスというのは自殺遺伝子とも呼ばれる。テロメアの減少による細胞老化以前に、そもそも遺伝子にはアポトーシスという自殺機能のようなものが備わっているんだ。例えば、オタマジャクシがカエルになるとき、尻尾がなくなるだろう。これもアポトーシスの作用によるものだ。

 そして、そのアポトーシスに深く関わっている遺伝子のひとつが、P53だ。P53は、細胞に異常が起きたとき、その細胞の分裂を止めたり、場合によっては死へ導いたりする。いわば、身体を守る監視役だ。もし、この仕組みを人工的に操作できたらどうなるか。老化した細胞や傷ついた細胞を取り除き、代わりに若い細胞を増やす。あるいは、細胞の状態そのものを、より若い段階へ引き戻す。理論上、そういう方向へ持っていくことは可能だと考えられる。

 おそらく学園は、テロメアとアポトーシス、その両方に介入する方法を見つけたんだ。細胞を死なせる仕組みと、細胞が老いていく仕組みを同時に操作し、身体を若い状態へ巻き戻すことに成功した。僕はその線がもっとも濃厚だと考えている。

 無論、これはあくまで推測すぎない。他の可能性はいくらでも考えられる。ただ、自然界において、生物の若返りは決して珍しいことではないんだよ。例えば、ベニクラゲは卵を産んだ後、自分も幼体に戻り、生をやり直す。シデムシは食料が不足した場合、エネルギーを蓄えるため、エネルギー消費の少ない幼体に戻る。他にもある。女王バチは老化を止めることができるし、ハマグリは生きている限りずっと成長し続ける。

 要するに、生命というものは、一様に誕生の瞬間から死に向かって不可逆的に行進しているわけではない。例外はいくらでも存在する。そんな生命のメカニズムを解明することができたならば、人の若返りも決して不可能ではない。

 特に、今は戦争中だ。戦争が劇的に科学の進歩をもたらすことは、歴史が証明している。それどころか、これまでの偉大な発明も世紀の発見も、すべては戦争がきっかけだったと言っても過言ではない。しかも、今起こっている戦争は、ただの戦争じゃない。何十年、いや何百年と続いている大戦争だ。そんな時代に、急速に科学が進歩したとしてもおかしくはない。若返りの技術が生まれたとしても何ら不思議ではない」そこまで話すと、クリスは片目を瞑って、こう付け加えた。「それに現に僕たちはこうして若返っている。それが何よりの証拠だ」

 話し終わると、クリスは得意げな笑い顔を作った。

 三人は誰も口を開くことができなかった。

 到底信じがたい若返りという推理が、クリスに裏打ちされ、真実として受け入れるしかなくなったからだ。

 ジョーが言葉を発するまで、すこし時間がかかった。

「わかったよ。お前のご高説はも十分だ。この学園では若返りの実験が行われている。それが事実だとして、お前の目的は何だ? 俺たちを守るってのはいったいどういうことだ?」

「ああ、そうだったね。ずいぶん話が逸れてしまった。話を元に戻そう。僕はこの学園の秘密を知っていながら、君たちと一緒になって学園のことを調べていた。なぜそれが君たちを守ることになるか? こういうことだ。君たちも僕も学園の実験によりどんどん若返っている。何もしなければ、若返りが進み、思い出も記憶も失われ、赤ん坊同然になってしまう。僕たちが僕たちでいられる時間は限られている。その時間を少しでも伸ばそうと、僕は君たちを集め、学園と戦うふりをした」

「話が見えないな」

 ジョーが言い返す。

「マリー、前に記憶のメカニズムを話したことがあったね」

 クリスはジョーを無視して、マリーに問いかける。

「確か、記憶はニューロン経路の変化によって行われる、とかなんとか……」

「うん、そうだ。前に話した通り、過度なストレスはニューロンを変化させ、記憶に悪い影響を与える。その一方で、ニューロンを適切に維持するためには、適度なストレスや刺激が必要なんだ。

 ここでの生活を思い返してごらん。毎日決まった時間に起床し、決まった時間に食事を取り、決まった時間に授業を受け、決まった時間に就寝する。めりはりのない単調な毎日だ。こんな生活を送っていれば、若返りとともにあっという間に記憶も失われてしまう。自分が自分でなくなってしまう。そこで、僕は考えた。脳に適度な刺激を与える必要があるってね」

「それで、あなたは、わたしたちを探偵ごっこに巻き込んだわけね」

「探偵ごっことはずいぶんな言い方だが、言い得て妙だ。確かに、探偵ごっこだね。君たちの記憶を可能な限り引き延ばし、少しでも長い間、君たちが君たちでいられるように手伝いをした、というわけさ。この探偵ごっこにつきあってくれた生徒は君たちが初めてじゃない。僕は今までに何度も探偵ごっこを繰り返してきた。若返りの進行が比較的遅い生徒を集め、調査隊を結成し、学園を調べ、実験室に忍び込み、刺激的で愉快な時間を過ごしてもらった。結局、最後はいつもみんな記憶を失って、子供に戻ってしまうんだけど、たくさんのいい思い出をもらったよ。きっと、子供に戻り、死んでしまった過去の調査隊も満足してくれたはずだ」

「それじゃ、わたしたちはリンダのことを憶えていた、わたしたちは選ばれたっていう話、あれは……」

「そうだ。君の推測どおりだ。君たちは選ばれた。ただし、選んだのはぼくだ。ぼくが君たちを選んだ。若返りが進んでおらず、行方不明になったリンダのことを憶えている君たちをぼくが選んだ。行方不明になった、あるいは、その生徒が死んでしまったから、他の生徒が彼らのことを忘れるわけではない。君たちもいずれ、他の生徒たちと同様に彼らのことは忘れてしまう。若返りとともにね。ただ、ぼくの考案したゲームのおかげで他の生徒よりも忘却が遅れているに過ぎない」

「そんな……」

「学園も僕の行為を黙認してくれているよ。学園に刃向かう可能性のある問題児たちを労せず、安全に管理できるわけだから、彼らとしても助かるってわけさ。そのおかげで、マリーが捕らえられたとき、助け出すこともできた」

「あれは、あなただったのね……」

 猫目に拷問されたとき、園長先生の背後にいた生徒はクリスだったわけだ。

 マリーが問うと、クリスはにやりと笑い、そして、再び手を後ろに回して喋り始めた。

「だけど、ここまでたどり着いたのは君たちが初めてだ。今回ばかりは僕も少々焦ったよ。大したものだ、君たちは。だけど、ぎりぎりのところで無事に幕を下ろすことができて、ほっとしているよ」

「何を言ってやがる。俺たちを守るだと? 思い上がるのもいい加減しろ」

 ジョーが怒りを滲ませて言った。

「楽しい時間が過ごせたじゃないか。スリルに満ちた毎日を送ることができただろう?」

「冗談じゃない。リンダやケン、それにトミーまで死んでいるんだぞ。それをお前は、お前は……クソッ!」

 ジョーが唇をかみしめた。

「彼らはどのみち、死んでいたんだ。他の生徒たちのように、何が起こっているのかもわからないまま若返って死んでしまうより、はるかに充実した最後の時間を過ごせたはずだ。彼らもあの世で喜んでいるよ」

「何だと!」

 ジョーがまた飛びかかろうとするのを、「ジョー!」とマリーは鋭く引き止める。

 ジョーは拳を握りしめたまま退き下がる。

「クリス」

 マリーはクリスのほうに顔を向けた。

「何だい、マリー」

「あなたの考えはよくわかったわ」

「そうか、それはよかった。君が物わかりのいい人で助かるよ。それじゃ、マリー、学園に戻ろうか。遊びはここまでだ」

「いいえ、わたしは学園には帰らない。わたしたちはこの学園を出て行くわ。わたしたちはあなたの思い通りにはならない」

 マリーはそう告げたが、クリスの顔から余裕の笑みは消えない。

「学園を出てどうするって言うんだい?」

「助けを求めるわ」

「助け? いったい誰が助けてくれるっていうんだい?」

「わからない。だけど、この学園で、恐ろしい実験に使われて死ぬなんてまっぴらよ」

「よく考えるんだ、マリー。僕たちはもう学園の実験に巻き込まれているんだ。若返りはどんどん進んでいる。そんな僕たちが外で生きていけるはずはないんだ。それに、外は戦争の真っ只中だ。学園を出ても、馬鹿げた殺し合いに巻き込まれるだけだ。爆弾で焼かれてしまうか、銃弾を撃ち込まれるか、あるいは飢えて死ぬか、いずれにせよ惨たらしい死が待っているだけだ。僕たちは必要とされてこの学園にいる。ここにいれば、銃で撃たれることも、爆弾で焼かれることも、飢えることもない。暖かいベッドもあるし、お腹いっぱいご飯を食べることもできるし、綺麗な洋服を着ることもできるし、本を読むことも、チェスで遊ぶこともできる。もっとも、それは実験が終了するまでの短い期間に過ぎないが、それでも荒野で野垂れ死ぬよりよっぽど幸せじゃないか」

「確かにあなたの言う通りかもしれない。だけど、それはわたしの望んだ幸せではないわ。わたしはわたしの意志で生きたい。たとえその先に不幸が待ちかまえているのだとしても、自分の足で歩きたい」

 マリーが強く主張すると、クリスは目元に笑みを浮かべて、しみじみとこう言った。

「それでこそ、マリーだ。それでこそ、僕が見込んだ人だ」

 目の前の笑顔、マリーはその笑顔を見たことがあった。いつ? どこで? わからないが、以前どこかで目にしたことだけは間違いない。

 クリスは続けた。

「あのとき、僕は君を助けることができなかった。だが、今度は違う。今度こそ君を守る。何をしてでもね」

「何を言っているの、クリス?」

 マリーは後じさる。

 クリスは白い歯を見せてにじり寄ってくる。

「さあ、マリー、帰ろう」

 クリスが右手を伸ばした。

 そのとき、マリーの背後から黒い影が飛び出し、クリスに飛び掛かった。

 ジョーだった。

「お前の思い通りになんかなるかよ!」

 ジョーはクリスを押し倒し、馬乗りになって、クリスの胸ぐらを掴んだ。

「落ち着きなよ、ジョー。暴力では何も解決しないよ」

 ジョーに組み伏せられてもなおクリスは冷静だった。

「俺は、お前に踊らされるつもりもないし、学園に利用される気もない。俺は、ここを出る。ここを出て、俺の好きなように生きるんだ」

 ジョーが怒鳴り声をあげると、クリスの顔から笑みが消えた。

 パチパチと音が鳴り、何か光ったかと思うと、ジョーが突然白目を剥いて、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。

 クリスはジョーの身体を押しのけ、ゆっくり立ち上がった。その手には小さな器具が握られている。猫目がマリーを折檻したときに用いた、あの電撃を与える道具だ。

「できれば使いたくなかったんだけどな」

 クリスは涼しい顔でそう言って、パンパンと服の埃を払った。

「なぜあなたがそんなものを……」

 マリーは声を震えて訊ねる。

「言ったろ。僕は学園に信用されているんだよ」

 クリスは当然のことのように言ってのけ、再びマリーに近づいてくる。

 クリスが一歩前進するたび、マリーは一歩さがった。

「さあ、マリー、帰ろう。ロイタースに。僕たちの楽園に」

 クリスが再び右手を差し出す。

 帰る?

 僕たちの楽園?

 冗談じゃない。

 学園に利用されて死ぬくらいなら、外に出て戦火に巻き込まれて命を落とすほうがまだましだ。リンダのように変わり果てた姿で死ぬくらいなら、焼死だろうが餓死だろうが、それで構わない。

 マリーはその意志を込めて、クリスの目を見据え、それから、ゆっくり首を左右に振った。

「まだわからないのかい、マリー。僕たちは外では生きていけないんだよ。ほら、キララも怖がっているじゃないか」

 クリスに言われ、マリーはキララを見る。

 隣にいるキララは小さくなって震えている。

 そうだ。キララはどうする? 

 自分はともかく、彼女まで巻き込んでいいのか? 

 自分の我がままに彼女をつきあわせていいのか? 

 それに考えが及ぶと、マリーに迷いが生じた。

 今、目の前に差し出されているクリスの手を取れば、丸く収まるのではないか。

 一時的なものとはいえ、みんな幸せになるのではないか。

 だが……。

 と、マリーは思い直す。

 この手を取ってはいけない。

 この手を取れば、自分が自分でなくなる。

 自分を保たなければならない。

 皮肉なことに、ずっと前にクリスに授けられた助言が、いま、彼の囁きに傾いてしまいそうなマリーを引き留めた。

「わたしの気持ちは変わらないわ、クリス」

 マリーは決然と言い放った。

「そうか」

 クリスは少しも残念がる様子を見せずにそう言って、目を瞑った。

 一瞬、クリスがわかってくれたのかと勘違いしそうになったが、クリスがそんな聞き分けのいい人でないことは、マリーもよく知っている。

「こんなことはしたくなかったんだけどな。今夜は望まないことばかりやらされて気が滅入る」

 溜め息交じりにそう言うと、ポケットに手を入れ、また別の器具を取り出した。小さな箱形の器具で、真ん中に丸いボタンがひとつ付いている。

 クリスはそれをマリーのほうに差し向けて、説明した。

「これは宿直室に緊急連絡を入れるための道具だ。このボタンを押した途端、宿直の職員がここにすっ飛んでくる。そして、君たちは職員に捕まる。その先に何が待ち受けているかは、言わなくても分かるよね」

 クリスの問いかけにマリーは沈黙で答える。

「懲罰房行きだよ。また、あの場所に君を送るのは忍びないが、仕方がない。外に出られるよりはよっぽどいいからね」

 ここまでか。

 やはり、学園から逃げ出すことはできないのか。

 最も信頼できると思っていた仲間の裏切りにより、計画は失敗してしまうのか。

 マリーはクリスを見つめる。

 クリスは左手に器具を持ち、右手の人差し指をボタンにのせた。

 終わりだ。

 すぐに職員たちが駆けつけ、自分たちは捕らえられる。

 そうして、酷い罰を受ける。

 マリーが諦めそうになったっとき、いきなりクリスが仰向けに倒れた。

 その拍子にクリスの手にあった道具が落ち、床を滑っていく。

 気を失っていたはずのジョーが目を覚まし、クリスに体当たりしたらしかった。

「逃げるんだ、マリー!」

 ジョーが叫んだ。

「離せ、ジョー、君はまだわからないのか!」

 クリスが怒鳴った。こんなふうに取り乱すクリスの姿を目にするのは初めてだった。

 クリスとジョーの取っ組み合いが始まった。しかし、素手となるとジョーに分があった。ジョーはクリスを押さえつけて叫ぶ。

「行け! マリー。今すぐここから逃げろ!」

 逃げる? 逃げるってどこに行けばいいのだ?

「早く行け!」

 ジョーが追い払うように右手を大きく振った。

「こっちよ、マリー」

 立ちつくすマリーの手をキララが取った。

 どこへ? と、そう口にする前にキララが走り出し、引っぱられるようにマリーも続いた。

「行くんじゃない、マリー、行ってはだめだ!」

 クリスの声が追いかけてくる。

 キララは実験室に続く階段とは逆のほうにマリーを誘った。

「どこに行くの?」

 マリーはそれだけ訊いた。

「いいから」

 キララはそう言って、壁に手を這わせた。

 程なく壁の一部が開き、新たな道が現れた。

 雨のにおいを含んだ風が吹きつけた。

 この風が、前回、この場所に来たとき、モーリスの羽を舞い上げたのだ。

 やはり、この地下室は外に繋がっていた。

 だが、どうしてキララが?

 そう思うマリーの手を、キララが「行くよ」と引っ張り、その疑問は頭から消えてしまった。

 通路に入る直前、マリーは室内を振り返った。

 ジョーとクリスはまだもみ合っていた。

 ジョーが一瞬マリーを見た。目が合うと、ジョーがかすかに笑った。マリーを安心させるためか、最後の挨拶のつもりか、強がっているだけなのか、どいう意味なのかわからないが、マリーは大きく頷き返した。

 そして、すぐに顔を正面に戻した。

 深い闇が続いている。

 その先は外のはずだ。

 マリーは暗い通路に足を踏み入れた。

「行くな、行くんじゃない、マリー」

 クリスの悲痛な声が聞こえて来た。

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