再び秘密の部屋へ
生活棟の通用口が見えてくる。
消灯時間も過ぎ、生活棟の部屋の電気は全て消えている。
生活棟のドアまで行くと、マリーは、トミーから託されたキーで開ける。トミーのキーは生活棟の鍵も開けることができた。
中に入り、ドアを閉めると、途端に静寂に包まれた。
まるで人の気配がしない。自分たちを探す捜索隊がうようよいるのではないかと心配したが、杞憂だったようだ。もしかすると、嵐のために捜索を打ち切ったのかもしれないが、何にせよ、好都合なことには変わりない。
それとも、何か罠でも仕掛けられているのか……?
一瞬その考えがよぎったが、ジョーが、さあ行こう、と手で合図して歩き出したので、マリーはその考えを頭の隅に追いやった。
忍び足で廊下を進む。
階段を上り、二階の廊下に出ても、人の気配はなかった。
何が起こっているのか、ふたりには知りようもないが、キララの部屋まで問題なくたどり着くことができそうだった。
途中、自分の部屋の前を通る。
脱走が成功しても、失敗しても、もう二度と戻ってくることはない。そう考えると、清々するような、名残惜しいような、複雑な気持ちになった。
キララの部屋に到着する。
マリーは静かにドアをノックした。
返事はない。
もう一度ノックしようとする手を、ジョーが掴んだ。
顔を向けると、ジョーは首を横に振った。
これ以上、音を立てるな。そう言っている。
それを理解したマリーは頷き返し、そのままキララを待つ。
「誰?」
ドアの向こうから、怯えた声が聞こえる。
「わたしよ、キララ」
マリーは囁き声で答えた。
もしここで、キララがドアを開けてくれなかったら、あるいは、キララが大声を出して職員を呼んだりしたら、そこで脱出計画は終わってしまう。
お願いキララ、と祈る思いでドアを見つめていると、ゆっくりと開いた。
その隙間からキララが顔を覗かせた。
「マリー?」
キララが小声で訊く。
「ええ、そうよ、キララ。中にいれてくれない?」
マリーはドアに顔を近づけ、ぎこちない笑みを作って頼んだ。
キララの顔には不審が滲んでいる。当然の反応だ。だが、ドアは開けてくれた。
マリーとジョーは、急いで中に入った。
「マリー、あなた、いったい何をしたの? 学園中が大騒ぎだったのよ」
キララが非難するように訊ねた。
「キララ。わたしたちは、今夜、学園から逃げ出すことにしたの」
時間がない。マリーは早速切り出した。
「何を言っているの、マリー?」
「本当なんだ、キララ」
隣からジョーが入ってきた。
「ジョー、あなたも行くの?」
キララがジョーに訊いた。
「ああ。俺も行く」とジョーは短く答えた。
「わたしたちはあなたを迎えに来たのよ、キララ」
マリーはさっさと本題に入った。
「それは前に断ったはずよ。キララは行かないわ」
キララは左右に頭を振った。
「だけど、前にあなたは言ったじゃない。本当はここを出たいって。外に出てパパとママに会いたいって。今がそのときなのよ」
「嫌よ。キララはお外になんて行きたくない。お外の世界では、キララたちは生きて行けないの。ここを出たら死んじゃうの」
「だから、それは……」
そこまで言ったところで、ジョーが一歩前に進み出た。
「よく聞くんだ、キララ。この学園は人体実験をする施設なんだ。その実験体に君は選ばれた。今すぐここを出ないと、君は殺されてしまうんだよ」
ジョーは説得の口調で言ったが、キララはジョーにも訝る視線を送る。
「あなたもマリーとおなじようなことを言うのね。キララはそんな話、信じないわ」
キララの答えに、ジョーがマリーを見る。
諦めよう。自分たちだけで逃げよう。
ジョーの目はそう言っていた。
マリーは首を振った。
まだ、手はある。
「ねえ、キララ、あなた、最後にモーリスに会ったのはいつ?」
マリーは話を変えた。
「モーリス?」
唐突な問いかけだったが、モーリスの話になるとキララの目がわずかに動いた。
「そうよ、モーリスよ。あなた最近、モーリスに会った?」
マリーが質問を続けると、キララは目を伏せた。
「会っていないわ。昨日も、その前も、呼んでも姿を見せないの」
「モーリスに会いたくない?」
キララが顔をあげてマリーを真っ直ぐに見る。
「どうなの、キララ?」
「会いたいわ、とても……」
キララは切なげに答えた。
「会えるわ、キララ。わたし、モーリスの居場所を知っているもの」
マリーが答えると、キララは「本当なの、マリー?」と身を乗り出した。
「ええ、本当よ」
「モーリスはどこにいるの?」
「お山の中よ」
「お山の中?」
「そうよ。お山にモーリスのお家があるの」
「なぜ、あなたがそんなことを知っているの?」
「わたし、見たのよ。モーリスがお山の中のお家に帰るところを。お山に一本だけ白樺の木があるでしょう。その木にモーリスのお家があるわ」
マリーが答えると、キララは難しい顔をして考えはじめた。
「この嵐でモーリスは、ここまでの道がわからなくなるはずよ。嵐が過ぎても、モーリスがここに来ることはない。モーリスに会うためには、ここを出て、お山まで行かなければならない。そうしないと、二度とモーリスには会えないわ」
マリーは虚実を織り交ぜ、キララを説得した。
本当は、モーリスはマリーの部屋にいる。マリーの部屋の、古いトランクの中にとじ込めている。
これがマリーの切り札だった。これ以上のカードはない。それでもなお、キララが脱走を拒むなら、彼女のことは諦めるしかない。
キララはまだ考えている。
当たり前だ。
命のかかった選択なのだ。
そう簡単に答えが出るはずもない。
だが、いますぐに答えを出してもらわなければならない。
残された時間はわずかなのだ。
「わかったわ」
重たい沈黙のあと、キララがようやく言った。ほとんど苦悶といっていいほど表情を歪めていた。
「じゃあ……?」
「ええ。あなたたちと一緒に行くわ」
マリーは虚脱しそうなくらいの安堵を覚えた。ようやく、キララを説き伏せることができた。この先も数々の困難が待ち受けているであろうが、とにかく、最初の関門を突破することはできた。
「そうと決まれば、グズグズしている場合じゃない。早く行こう」
さっそくジョーが促した。
「そうね」とマリーも同意する。
が、キララは、「この格好のままでは行けないわ」と言った。
確かに寝間着のままではまずい。外は嵐だ。靴も履き替えなければならないし、厚着をしたほうがいい。
「そうね、それじゃ、早く支度して」
マリーが言うと、キララはこくりと頷き、身支度を始めた。
キララの動作は酷く緩慢だった。依然として気乗りしないのだろう。平穏だったロイタースでの生活が今夜、突然終わってしまうのだ。
その気持ちは理解できる。
だが、マリーは気が急いた。一刻も早く脱出しなければならないのだ。
早くなさい。
マリーはそう言いたいのを抑えて、じっと待つ。
マリーとジョーが見守る中、キララはクローゼットからワンピースと上着を取り出し、寝間着からワンピースに着替え、上着を羽織った。着替えが終わると、今度はベッドに腰かけゆっくり靴下を履く。さらに、二三度迷ってから靴を選び、足を入れて、靴紐を結んで、やっと身支度を終えた。
「それじゃ出発しよう」
キララが支度を終えると、待ちきれぬとばかりにジョーが急かし、部屋のドアを開けた。
「行きましょう」
マリーはキララに声をかける。
「ええ」とやはりキララは渋々と言った様子で応えた。
部屋を出る前、キララが未練がましく室内を見返した。その姿を見て、マリーは胸がちくりと痛んだ。だが、こうするしかないのだ。こうするのがキララのためなのだ。
「さあ」ともう一度声をかけると、キララはようやく決心した様子で頷いた。
キララの部屋を出て、三人はジョーを先頭に暗い廊下を進んだ。
キララを連れ出すことには成功した。次は実験室に向かい、トミーを救出する。それから、地下室に行き、外に続く通路を見つけ出して脱出する。まだまだ先は長く、道のりは険しいが、今のところ順調だ。
廊下を通り抜け階段を下りきったところで、ふいにキララが足を止めた。
「どうしたの?」
マリーは小声で訊ねた。
「大変」とキララが囁いた。
「何かあったの?」
「ミチルをお部屋に忘れちゃった」
キララが今にも泣き出しそうな声で言った。
もたもたしている時間はない。
一刻も早く次の行動に移らなければならない。
諦めるしかないわ。
そう言おうとする前に、キララはマリーたちに背を向け、来た道を引き返した。
「キララ」と後を追おうとするマリーをジョーが制止した。
「三人揃ってうろつくのは危険だ」
「だけど……」
「それに職員に見つかったとき、三人でいるより、一人のほうが言い訳が立つ」
確かにジョーの言うとおりだ。万が一発見されたとき、キララひとりなら、どうにでもなる。が、三人に一緒にいるところを見つかれば、キララまで自分たちと同罪に扱われてしまう。
マリーはキララを追いかけることを諦め、階段下の人目につかない場所で彼女が戻ってくるのを待つことにした。
もしキララがこのまま戻って来なかったら。
もし自室に戻る途中で職員に見つかってしまったら……。
悪い想像ばかりが膨らみ、マリーは気が気でなかった。
しかし、マリーの心配をよそに、ほどなくキララは戻ってきた。その手には、彼女の大のお気に入りの人形、ミチルがいた。
「ごめんなさい」とキララが詫びると、マリーは大きく安堵した。
すぐさま、ジョーが「よし、じゃあ、行こう」と声をかけた。
「ええ、そうね」
マリーは答え、キララの肩に手を回した。
三人は再び歩き始める。
生活棟を出て、雨風が吹き荒れる渡り廊下を通り抜け、学習棟に入る。
学習棟の鍵もトミーからもらった複製品で解錠できた。
中は生活棟に輪をかけ静かだった。
昼間、あれだけのことを仕出かしたというのに、捜索する職員はおろか、巡回の職員すらいない。この嵐に職員全員がどこかに連れ去られてしまったのではないか、そんな寓話めいたことを考えてしまうほど、誰もいなかった。
最も危険な区域だと考えていた職員室の前も、あっさり通り過ぎることができた。
実験室の明かりが見えてきた。
次の関門だ。
トミーの鍵を使うことができるか、どうか。侵入されたことを察知した学園が、実験室の鍵を取り替えていたら、その時点で終わりだ。
実験室の扉の前で、マリーは鍵を手にして祈った。
トミー、力を貸して。
リンダ、力を貸して。
マリーは鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくり回した。
ガチャリと、あたりが静かな分、異様に大きな金属音を響かせ、鍵が開いた。
マリーとジョーは、ほっと息を吐き、頷き合う。
トミーの鍵で無事に実験室の扉を開くことができた。実験室への潜入という二番目の関門も突破できた。順調だ。順調すぎて、怖いくらいだ。誰かにそう仕組まれていようのではないかと、勘ぐってしまうほどだ。
重たい扉をジョーが押し開け、三人は実験室に入った。
三回目の実験室。
無機質な什器類、機械類、そして、中央に設置されている診察台のようなベッド。何も変わっていない。
最初に迷い込んだときとも、二度目に仲間たちと潜入したときとも、室内の様子は全くといっていいほど変化はない。
ジョーは真っ直ぐ中央のベッドに向かう。
マリーも後を追った。
ベッドは平らだった。
「トミーがいない」
ジョーは言った。




