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逃亡

 マリーは廊下を歩いていた。

 向かう先は、園長先生や猫目のいる職員室だ。

 無論、行きたくはない。だが、行かなければ、また園長先生のほうからやって来るに決まっている。無視したりすれば、さらに園長先生の不興を買うだけでなく、後ろめたいことをしていると自ら告白するようなものだ。

 行かないという選択肢はない。

 それに、もしかすると、取るに足らない用件である可能性も残されている。例えば、お部屋をお掃除しなさいだとか、ご飯を残さず食べなさいだとか、そんな些細な注意のために呼び出されたという可能性も、限りなくゼロに近いが、ないとも言い切れない。

 そうであるなら、命令を無視して、ただちに園長先生の怒りを買うよりも、とりあえずは命令に従い顔を出したほうが賢明だと消極的に判断したのだ。

 まだ昼前だというのに、外は暗い。

 廊下の窓ガラスにポツポツと雨粒が当たっている。

 嵐はすぐそこだ。

「マリー」

 雨音に混じって、耳に飛び込んできた。

 マリーは立ち止まった。

 振り返る。

 ジョーが立っていた。

「ジョー」

 マリーは言った。

「話があるんだ、マリー」

「わたしもよ」

「よし、じゃ、俺から話す」

「ええ」

「嵐が来た。今夜、決行だ」

 ジョーが用件だけ手短に伝える。

「わかったわ」

「で、君のほうの話って?」

「園長先生に呼び出された」

 マリーが答えると、「えっ」とジョーは驚き、それから、「まさか、計画がばれてしまったのか?」と訊ねた。

「それはないと思う」

「じゃあ、いったい何の用だ?」

「わからない。でも、ともかく、園長先生に会ってくる」

「危ないんじゃないか?」

「だけど、行かないわけにはいかないわ」

「それはそうかもしれないけど……」

「もし……」

 マリーは言いかけたが、その先の言葉が続かない。

「もし?」

 ジョーが促した。

「もし、わたしが戻って来なかったら、キララを連れて、あなたたちだけで逃げて」

 マリーは言った。

「えっ」

「これを」

 マリーはポケットから、トミーからもらった鍵の複製を差し出した。いつでも逃げ出せるよう、マリーはつねにこの鍵をポケットに忍ばせていた。

「あなたに渡しておくわ」

 だが、ジョーは、「ダメだ」と拒んだ。「これは君が持っておくんだ。そして、これを持って必ず戻ってくるんだ」

 ジョーはそう言って鍵を持つマリーの手を両の手で包み込んだ。

「帰ってくるんだ、マリー」

 ジョーがマリーを真っ直ぐに見つめ、繰り返した。

 ジョーに励まされると、少しだけ勇気が湧いてきた。

「わかったわ」と答え、マリーはほんの少し口の端を持ち上げた。

「必ずだよ」

「ええ。じゃあ、行くわね、ジョー。こんな場所であなたと一緒にいるところを誰かに見られたりしたら大変だわ」

「うん」

「じゃあね、ジョー」

 ジョーに背を向け、マリーは再び職員室に向かって歩き出す。

「マリー、絶対に戻ってくるんだ」

 後ろからジョーの声が聞こえてきたが、振り返らなかった。

 長く、暗い、廊下を歩く。

 このままどこまでも続いていてほしい。永遠に職員室にたどり着かないでほしい。そうなれば園長先生に会わなくてすむ。猫目の顔を見ないですむ。

 しかし、そんな馬鹿げた願いが叶うはずもなく、やがて、職員室の前に来た。

 大きく息を吸い、ドアノブに手をかけた。

 覚悟は決めた。

 だが、いざとなると、やはり怖かった。

 痛いのはごめんだ。

 死ぬのは嫌だ。

 ドアノブに手をかけたまま、二秒、三秒と時間が経過する。

「……マリー」

 すると、廊下の奥から声が聞こえてきた。

 マリーはドアノブを握ったまま、首だけ捻った。

 廊下の奥に、ぼんやりとした光が見える。だが、それは何度も目にしている実験室からもれる茫洋とした光ではない。

 マリーはじっと見つめる。

 不確かな光は、やがて人の形に変化した。

 トミー? 

 一瞬マリーは考えたが、違った。

 リンダだった。

 死んだはずのリンダがそこに立っていた。

 リンダは廊下にぽつんと佇み、口をぱくぱくと動かしている。

 マリーはドアノブから手を放し、歩み寄る。

「リンダ? リンダなの?」

 マリーは声をかける。

 リンダは何も答えず、ただ唇を動かし続けている。

「リンダ、どうしたの、何が言いたいの?」

 マリーはさらに近づいた。

「……げ……な……い」

 次第にリンダの声が大きくなるが、まだ正確には聞き取れない。

「何? 何と言ったの、リンダ」

「に……げ……な……さ……い」

 今度は、はっきり聞こえた。

 逃げなさい。

 リンダはそう言った。

「逃げなさい? あなた、そう言ったのね、リンダ」

「に……げ……な……さ……い」

 リンダは繰り返した。

 マリーは合点した。

 リンダはこう言っているのだ。

 このまま園長先生に会ってはいけない。会えば、そこで確実に殺されてしまう。だから、逃げなさい。今すぐ、この場を離れなさい。ロイタース学園から脱出しなさい。

 リンダはそうマリーに教えてくれているのだ。

 リンダは意地悪な子ではなかった。マリーを助けるため、死の世界から戻ってきた。自分を助けるために戻ってきてくれたのだ。

「わかったわ。逃げればいいのね」

 マリーは言った。

「に……げ……な……さ……い」

 リンダはおなじ台詞を口にするだけだった。

 リンダの警告を受け取ったマリーは踵を返した。

 逃げる。

 園長先生から逃げる。

 そして、いますぐこの学園から逃げる。

 マリーは、来た道を引き返し職員室のドアを足早に通り過ぎた。

 通り過ぎるとほぼ同時に、職員室のドアが開いた。

「マリーさん」

 直後、背後から声が飛んできた。確認するまでもなく、園長先生だ。

 マリーは走り出した。

「マリーさん、どこに行くの?」

 園長先生の高い声が追いかけてきたが、マリーは足を止めなかった。

「誰か!」

 園長先生が声を張り上げた。

 背後が騒がしくなる。

 複数の靴音がマリーを追ってくる。

 マリーは走る速度を上げた。

 ともかく、ジョーだ。ジョーを探さなければ。

 ジョー、ジョー、ジョー……。

 マリーは心の中で彼の名を連呼し、廊下を走った。

 廊下を曲がったところで、人とぶつかった。

「きゃっ」と短く悲鳴をあげ、相手の顔を見る。

 ジョーだった。

「君が心配で待っていたんだ」

 マリーの顔を見るなり、ジョーが言った。

「ジョー!」

 マリーは思わず叫んだ。

「いったい何があったんだ、マリー?」

 ただならぬマリーの様子に、ジョーが顔色を変えて訊ねた。

「とにかく逃げて、ジョー」

 マリーがそれだけ言うと、事情も聞かず、ジョーは「わかった」と答え、マリーの手を取り駆け出した。

 ジョーが察しのいい少年で助かったとマリーは思った。

 ふたりは生活棟を出て、中庭を横切る。

 目指す場所は裏道の中ほどにあるセントラル給湯室だ。

 本格的に雨が降り始めていた。

 風も強くなっている。

 嵐はまだ到達していないようだが、頬に当たる雨粒は小石をぶつけられたような勢いがあった。

 ふたりはセントラル給湯室に向かって走っている。

 途中で、正門の前を通る。

 ロイタースの銘板が目に入る。

『REUTERUS』

 こんな切羽詰まった状況でも、マリーは銘板の文字が気になった。

 何だ、この違和感は。

 その正体がもうすぐ掴める。そんな気がする。

 後ろに流れてゆく銘板の文字を、目で追う。

 もう少しだ。

 もう少しなのだ。

 もう少しでわかるのだ。

 必死に頭を巡らせているうちに、裏道に入り、銘板が視界から消えた。


 ふたりは裏道に駆け入り、金属製のゴミ箱の前まで来た。

 後ろを確認すると、追っ手は来ていない。

 ジョーが素早くゴミ箱を横にずらし、そこに現れた蓋を開けた。

「さあ、早く」

 ジョーに促され、マリーは急いで中に入る。

 続けてジョーも飛び込むと、蓋を閉めた。

 同時に、上での騒動が嘘のように静かになった。

 ジョーが電灯のスイッチを押し、明かりを灯す。

 室内が明るくなると、マリーは少し落ち着きを取り戻した。

 前に来たときよりも、ガスの臭いが強くなっているような気がしたが、そのことに注意を払う余裕はなかった。

「何があったんだい? マリー」

 ジョーが肩を上下させて訊ねた。

 マリーは呼吸を整えてから、職員室の前で起こった事をジョーに話した。

 職員室の前で逡巡していると、リンダが現れ、マリーに逃げろと命じたこと。

 それに従い、園長先生のところには行かず、逃げてきたこと。

 その途中で園長先生に見つかり追いかけられたこと。

 すべてを伝えた。

「そうか」

 話し終えると、黙って聞いていたジョーが考え込む顔つきで答えた。

「リンダを見たっていうわたしの話を信じてくれるの?」

「ああ、信じるよ」

 ジョーはマリーの夢のような話をあっさり受け入れてくれた。

「それに、信じようが信じまいが、こうなった以上、もう後戻りはできないからな。俺たちは本格的に学園から狙われる身になった。いよいよ追い詰められたってわけだ」

 ジョーはどことなく楽しげに言う。

「ごめんなさい、ジョー。わたしの軽率な行動のせいで、あなたにも迷惑をかけてしまったわ」

「いや、遅かれ早かれ、こうなっていたんだ。計画がほんの少し前倒しになっただけだ。謝る必要はない。それに君の判断が間違っていたのかどうかもわからないからね。仮に君があのまま園長先生に会っていたら、事態はもっと悪い方に転がっていたかもしれない」

「そう言ってもらえると、助かるわ」

「それより、俺たちはもう、このまま学園を脱出するしかなくなってしまった」

「ええ」

「ここで夜が更けるのを待って、夜になったら実験室に忍び込み、あの地下室から逃げだそう」

「そうね……」とマリーは浮かない声で言う。

「どうしたんだい? まだ何か気がかりでもあるのかい?」

「キララよ。まだキララを説得できていないの。それどころか、わたし、キララに嫌われちゃって、話さえまともにできないのよ」

 マリーが訴えると、ジョーはまた思案顔になった。

「よし。それじゃ、こうしよう。今夜、実験室に行く前に、キララの部屋に寄る。そこでキララを説き伏せて、キララも連れて脱出する」

 ジョーもクリスと同じような冷酷な決断、つまり、キララを見捨てるという決断を下すのではないかと心配したが、ジョーはこう言ってくれた。その決断をしてくれたジョーに、マリーは「ありがとう」とお礼を言った。

「だけど、これが最後のチャンスだ。俺の言っている意味はわかるよな」

 ジョーが厳めしい顔で言った。

「もちろんよ、ジョー」マリーも表情を固くした。「もし、そこでもキララが嫌がったら、そのときは諦める。わたしたちだけで脱出しましょう」

 キララのことは諦める。

 残酷な決断だ。

 だが、そんなことにはならない。そうならないよう、マリーはすでに準備を整えてある。キララは必ず自分たちと一緒に来るはずだ。

「じゃ、夜になるまでここに隠れておこう」

「ええ」

「マリー、必ず逃げだそう」

 ジョーが力強い声で言った。

「ええ、必ず」

 マリーも力を込めて返事した。


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