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二人の距離

 マリーは男の子からコップを受け取り、水を飲んだ。

 カラカラに乾いた身体に、水が染み渡り、マリーは生き返ったと思った。

 マリーは一息ついた。

 周囲を見回す。

 瓦礫の山。

 苦しむ人々。

 ここはどこなのだろう、とあらためて思う。

 男の子が口を開いた。

「大丈夫かい?」

 恐らくそう言ったのであろう男の子の顔を見る。

 その子は知っている人だった。


                   


「クリス!」

 マリーは自分の叫び声で目を覚ました。

 周囲に視線を走らせる。ロイタース学園の自室だ。

 また夢を見ていた。

 動悸が酷い。寝間着が汗で湿っている。

 夢の中にクリスが出てきた。なぜ、いつも見る夢にクリスが出てくるのだ。繰り返し見ている夢に、何の違和感もなく、初めからそういう台本だったかのようにクリスが登場した。

 あの夢は本当に夢なのか? 

 いつか、どこかで実際に経験したことを、睡眠中に思い出しているのではないか? 

 そんなふうに考えてしまうほどリアルな体験だったので、マリーはどちらが夢でどちらが現実なのかわからなくなる。だが、よくよく考えてみれば、身近な人が夢に出てくることなんて、珍しくもなんともない。このところクリスのことを考える機会が多かったから、夢にまで彼が出てきたのだろう。

 ただ、それだけのことだ……

 起床時間を知らせるチャイムが鳴った。

 マリーは窓のほうに顔を向けた。

 外は薄暗く、まだ、夜が続いているように思える。が、そうではない。いよいよ嵐が近づいているのだ。

 今夜か、あるいは明日には嵐が到来するだろう。

 キララの説得は、まだ終わっていない。だが、今度こそ上手く行くはずだ。その手はずは整えてある。

 マリーは部屋の隅に置いてあるトランクに目を向ける。

 中からバタバタと羽音が聞こえてくる。

 モーリスの羽音だ。風切り羽を切り落としたから、もうモーリスは空を飛ぶことはできない。可哀想だが、仕方がない。これもキララを助けるためなのだ。

 マリーそう自分に言い聞かせつつ、素足で床を踏んだ。

 驚くほど冷たい。まるで氷の上に足を乗せたようだ。

 ほんの少し前まで陽気な季節だったのに……。

 マリーは奇妙に思いに囚われながら、スリッパを履いた。

 支度を終え、部屋を出ると、今朝も食堂に向かう生徒たちが列をなしていた。

 生徒たちはいつものように、生気のない瞳で足を引きずるように歩いている。

 この行列に加わるのは、あと何回くらいだろう。一回か、二回か……。脱走計画が成功しようと失敗しようと、この列に並ぶのはあと数回のはずだ。そんなふうに考えると、行進する生徒たちがいつも以上によそよそしく感じられた。 

 食堂の前に、園長先生が立っていた。

「おはよう、おはよう」と食堂に入る生徒に声をかけている。

 妖しい光を放つその目は、毎度のことながらマリーを恐怖させる。

 マリーが園長先生の前を通ると、彼女の顔から作り物の笑みが消えた。

「マリーさん」

 園長先生が、抑揚のない声で呼びかける。

「はい」

 マリーは身体を強ばらせ、小声で返事をする。

「朝食のあと、わたしのところにいらしてください」

 園長先生が命じた。柔らかい物言いだが、有無を言わせない迫力がある。

 マリーは園長先生の顔を見上げ、懸命に頭を働かせた。

 なぜこのタイミングで自分を呼びつけるのか。

 まさか、計画がバレてしまったのか。

 嵐の夜、この学園を脱出する計画を知られてしまったのか。

「聞いてますか、マリーさん?」

 沈黙するマリーに園長先生が迫る。

「え、は、いえ」

 マリーは言葉ならない声を漏らした。

「食事のあと、わたしのところに来るんですよ、わかりましたね」

 園長先生が低い声で命じた。

「はい、わかりました、園長先生」

 マリーは抗うこともできず了承した。

「では早く、席に着きなさい」

 園長先生に言われ、マリーは再び生徒の行列に戻った。

 なぜ園長先生はいきなり自分を呼びつけたのだ。

 何の用事があるのだ。

 何をする気だ。

 わからない。わからないが、ついに学園の手が首にかかった。そのことだけは強く意識された。

 マリーは落ちかない気持ちのまま食堂の自席に着く。

 ほどなくして、キララがやって来た。

 キララが無言でマリーの隣に座る。

「キララ」

 マリーは声をかける。

 キララはマリーのほうを見ようともしない。

「キララ」

 もう一度声をかけるが、キララの態度は変わらない。説得に失敗したあのとき以来、キララはずっとマリーのことを無視している。

 危機は目の前まで迫っている。嵐の夜はもう間近だ。なのに、キララの説得は終わっていない、どころか、避けられている。

 小さな歯車ひとつなのだ。その歯車さえはまれば、すべてが上手く回り出すはずなのだ。それなのに、たったひとつの歯車が狂ったばかりに何もかもがおかしな方向に転がっていく。

 マリーにはそれがもどかしく、口惜しかった。

 隣のキララとは会話もなくどこか気まずい雰囲気のまま朝食を終え、食器を返却して、食堂を出ると、マリーはキララの姿を探した。

 残された時間は少ない。もう一度、説得を試みようと考えたのだ。 

 だが、キララを見つける前に、「マリーさん」と背後から園長先生に声をかけられた。

 マリーは振り返った。

「職員室で待っていますからね。早くいらしてください」

 園長先生はそう釘を刺し、立ち去った。

 園長先生の後ろ猫目の職員がいた。

 猫目はマリーを見つめ、顔の端まで口を広げて笑った。

 マリーは廊下の真ん中で身動きが取れなくなってしまった。

 そうだった。

 これから、園長先生に会いに行かなければならない。

 何を訊かれるのか。

 何を知られたのか。

 何をされるのか。

 マリーは怖かった。死ぬことではなく、何が待ち受けているのか、わからないことが恐ろしかった。


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