セントラル給湯室で
マリーは歩けなくなり、瓦礫の山に腰をおろした。
怪我をした人、血を流している人、泣き叫ぶ人、うめき声を上げる人……
たくさんの人が苦しんでいる。
マリーは酷く喉が渇いていた。
息もできなかった。
「お飲み」
声が聞こえてきて、マリーは顔をあげた。
ひとりの男の子がコップに入った水を差しだしていた。
マリーは夜中に目を覚ました。
また、いつもの夢を見ていた。
そして、内容が進んでいた。
だが、もはや夢のことなどどうでもよかった。
マリーはベッドに横たわったまま、キララにもらったモーリスの羽をぼんやりと見つめていた。
結局、キララにここから逃げようと言い出すことはできなかった。それどころか、彼女からおかしな話を聞かされ、謎は深まる一方だ。
ペイジは、外の世界では爆弾が落ちてきて、街は燃えていると、キララに教えた。夢に見るようなことが現実に起こっていて、自分たちは外の世界では生きて行けない、とも言ったらしい。
何が本当で、何が嘘なのか、マリーにはわからなくなっていた。
『誰も信じてはいけない』
クリスの言葉がよみがえる。
『悪魔は意外なところにいるものよ』
ペイジの言葉がよみがえる。
彼らの言葉、それ自体、信じていいのかどうかわからない。だが、これだけは言えた。
ここでは自分で考え、自分で答えを見つけなければならない。
自分で判断し、自分で行動しなければならない。
マリーは目を瞑ってじっくり考える。
自分は何をすべきなのか。
何ができるのか。
そのとき、強い風が吹き、窓の隙間から室内まで入り込んで来た。
隙間風は、指先で軽くつまんでいただけのモーリスの羽を舞い上げた。
マリーは宙を舞う羽を目で追った。
モーリスの羽がふわふわと飛んでいる。
ただ羽が風に舞っているだけなのに、マリーは目を離せない。
なぜ、自分はこれほど風に舞う羽に気を取られるのだろう。
目の前で舞う羽。
地下室で舞う羽。
風に乗って舞う羽。
しばし考え、マリーは閃いた。
「そうだわ」
思わず声を出して、マリーは起き上がった。
翌朝、朝食のあと、マリーはジョーを探し回っていた。
自分が何をすべきか、マリーは決断した。
やはり学園を脱出する。キララも一緒に。
クリスの計画を悠長に待っている余裕もない。信憑性に乏しいペイジの話を真に受けて躊躇っている暇もない。学園の魔の手は、もうキララの肩にかかっているのだ。外の世界に何が待ち受けているかわからなくても、キララをこのまま学園に閉じ込めておくことはできない。まずは、学園を脱出し、学園の手の届かないところまでキララを連れ出す。
そして、その方法も見つかった。幼いキララを安全に連れ出す方法、それがわかったのだ。いや、現段階では可能性にすぎない。可能性に過ぎないが、それに賭けるしかない。
教えてくれたのは、モーリスの羽だ。お守りとして持っていたモーリスの羽が、その可能性を見せてくれた。マリーにはそれが何かの符牒に思えてならない。モーリスが力を貸してくれたのだと思えてならない。
脱出方法はぼんやりと見えてきた。あとは、それを実行に移すだけだ。そのためにはジョーの力が必要だ。彼の行動力、咄嗟の判断力が不可欠なのだ。
ジョーの姿はすぐに見つかった。レクリエーションルームにいた。
だが、いざジョーを前にすると、マリーは尻込みしてしまう。
ジョーとは険悪なままだ。また前のように冷たくあしらわれてしまうかもしれない。もしそうなれば、その時点で計画は頓挫してしまう。
ジョーはレクリエーションルームを出て、どこかに向かって歩き始めた。
踏ん切りのつかないマリーは、そのまましばらくジョーのあとをつけた。
ジョーが廊下の角を曲がった。
マリーもジョーを追って、角を曲がった。
すると、ジョーの姿が煙のように消えた。
どこに行ったのだ、とあたりを見回すと、肩をぽんぽんと叩かれた。
驚いて振り返ると、ジョーがそこに立っていた。
何か用? と言う代わりに、ジョーは小さく肩を持ち上げた。
「脅かさないで、ジョー」
マリーは抗議した。
「あとをつけるなら、もっと上手くやりなよ」
ジョーが言った。口調にとげとげしさがない。まだ自分たちのことを許してはいなさそうだが、話くらいは聞いてくれそうだ。
「大事な話があるの」
「またそんな話かい?」
「学園を出る方法を見つけたの」
ジョーにあしらわれてしまう前に、マリーは重要なことを口にした。
マリーの目論み通り、ジョーは途端に表情を変え、「何だって?」と話に乗ってきた。
「ここでは危険だわ」
マリーは周囲に視線を走らせ、声を潜めた。
「よし、じゃあ、場所を変えて話そう。例の物置小屋がいい」
そう言って歩き出すジョーを、マリーは「あそこはダメ」と引き止めた。
「どうして?」
ジョーが立ち止まって訊く。
マリーは、あの小屋で目撃した出来事を思い出す。立ち尽くす巨人、祈りを捧げるかのように巨人を前にしゃがみ込んでいたペイジ。あのふたりがいまも物置小屋にいて、あの野蛮な行為に耽っているように思えて、とても足を向ける気にはなれなかった。
「あの場所は学園にマークされているわ」
マリーは咄嗟にでまかせを言った。
ジョーはしばし考え、「よし、わかった。それじゃ、俺のとっておきの場所に行こう」と誘った。
「とっておきの場所?」
「来ればわかる」とジョーは再び歩き出す。
ジョーがどこに連れて行く気なのかはわからないが、とりあえず、マリーは彼に従うことにして、あとに続いた。
ジョーは中庭に出ると、クリスが裏道と呼んだ小径に入った。小径の中間くらいにある金属製の四角い箱の前で立ち止まる。
「ちょっと待っててくれ」
ジョーは箱に手をかけた。どうやら可動式のゴミ箱らしく、ジョーが押すと、横に動いた。
その下に、金属製の丸い蓋があった。
ジョーはその金属の蓋も開けた。地下に続く丸い縦穴が現れ、そこから生暖かい風が吹き出してくる。
「ここは?」
マリーは我慢できずに訊ねる。
「降りてから教える。とにかく、下に降りてくれ」
マリーは穴をのぞき込んだ。
ホッチキスの針を巨大化させたような梯子が、壁にそって下に続いている。
「マリー、先に行ってくれ」
ジョーに促され、マリーはハシゴに足をかけた。
慎重に一段一段下っていく。
闇に向かってどこまでも続いている、そんな錯覚を起こしそうな梯子は、しかし、さほど長く、程なく床に足が着いた。
続いてジョーも降りてくる。その途中で蓋を閉め、あたりは正真正銘の闇になった。
どこからか、奇妙なにおいがしてくる。
卵が腐ったような、古い油のような、嫌なにおいだ。
「いま明かりを点ける」
ジョーの声がしたかと思うと、パチッとスイッチの音が響き、中が明るくなった。
穴の中は狭い空洞で、中央に大きな機械がある。その機械から、大小のパイプが壁づたいに伸びている。
「ここはいったい何なの?」
マリーはあらためて問う。
「ここはセントラル給湯室だ」
「せんとらる、きゅうとうしつ?」
マリーはジョーの発した単語をゆっくり繰り返す。
「ああ、そうさ。この学園には常時百人近い人間が生活しているだろう。必要給水量から考えても、この規模の施設で局所式給湯方式を採用しているとは考えにくい。実際、地上のどこを探してみても給湯器は見つからなかったからね。と言うことは、地下に中央給湯室があるはずだ。それで、俺はずっと、セントラル給湯室の場所を探していた。あの物置小屋が使えなくなったときや、非常の場合のことを考えてね」
ジョーが説明した。
その説明の半分もマリーには理解できなかったが、ジョーが持っている知恵を使って、この場所を見つけ出したことはわかった。
「そうだったの」
マリーは感心の声で言った。
ジョーのことは機転の利く男子だとは思っていたが、こんなふうに建物の構造を理解し、そこからこんな場所を探し出すような知恵のある子だとは考えていなかった。どちらかといえば、直感で行動を起こすタイプだと思っていた。
「まあね」とジョーは得意げに鼻の下をさする。
「だけど、よく学園に怪しまれずに探し出すことができたわね」
「これさ」
ジョーはポケットから小石を取り出す。
「これは青石ね」
マリーは言った。
「そうさ。俺は鉱石を探しながら、同時に、このセントラル給湯室の場所も探っていた。学園の奴らは、俺のことをただの石好きな生徒だとでも考えていただろうが、それは表向きで、いやまあ、石好きなのは本当なんだけど、それを隠れ蓑にして、こっそり探し回っていたってわけさ」
「そうだったのね」
先日、この付近で見つけた青石はやはりジョーのものだったわけだ。そのことを伝えると、ジョーも「たぶん俺が落とした石だ」と認めた。
「君たちに黙っていたことは許してほしい。万が一にも学園に勘づかれたくなかったし、セントラル給湯室が見つかるかどうかもわからなかったからね」
「気にしていないわ」
そう答えたとき、また、妙なにおいがしてきた。マリーは鼻をすんすんと鳴らした。
それに気づいたジョーが、「におうだろ?」と訊ねた。
「ええ。なんだか独特のにおいがするわね」
「たぶん、どっかの管からにおいがもれているんだろうな。ずいぶんと古い設備みたいだから」
ジョーは給湯室の内部を見回す。
「大丈夫なの?」
「ああ、においがもれているだけで、危険なガスじゃない」
ジョーが事もなげに言い切った。実際大丈夫なのかどうか、マリーにわかるはずもないので、ジョーの言葉を信じて、「そうなのね」と答えた。
「それで、さっきの話だけど」
ジョーは仕切り直した。
「その前にジョー、あなたに謝っておきたいの」
「謝りたいって?」
「この前、わたしはあなたの意見に反対し、クリスのほうに賛成してしまった。まずは、そのことをきちんと謝らせてちょうだい。ごめんなさい、ジョー」
「そんなこと、気にはしていないよ。君には君の考えたあったんだろう」
「そう言ってくれると気が楽になるわ」
「それはいいから、さっきの話の続きを聞かせてくれないか」
「そうね」と答え、マリーはこれまでの経緯を話した。
キララが被験体に選ばれたこと。
キララを助け出したいと思っていること。
もう学園の秘密なんてどうでもいい、と思っていること。
今すぐにでも学園を脱出したい、と思っていること。
そして、最後にこう付け加えた。
「それで、わたし、学園を脱出する方法を発見したの」
ジョーの眉がぴくりと動いた。
「その話、詳しく聞かせてくれないか」
ジョーは瞳を鋭く光らせて訊ねた。
「だけど、これはあくまで可能性の話よ」
マリーはあらかじめ断っておく。
「それでかまわない」
「じゃあ、話すわね」
「頼む」
「前にみんなで実験室に忍び込んだとき、実験室の下に、さらに別の部屋があったでしょ?」
「ああ」
「そこにリンダとケンの遺体が寝かされていたことは言ったよね」
「うん、聞いた」
「あの遺体はどこに行くのかしら?」
マリーの問いかけに、ジョーは「さあ」と首を傾げた。
「いつまでもあの場所に置いておくとは思えないわ。だって、当たり前のことだけど、遺体はすぐに腐ってしまうもの。仮に、あの場所に遺体を保存するための設備があるのだとしたら、これまでに行方不明になった生徒の遺体もあるはずよ。だけど、そんなものはなかった。あったのはリンダとケン、ふたりの遺体だけ」
「……つまり?」
「あの部屋は外に繋がっているのよ。あそこは遺体を一時的に保管しておく場所で、いずれ、外に運び出される。あの部屋のどこかに外に繋がる通路があるはずなのよ」
「ちょっと待ってくれ、マリー。俺たちの気づかない時間、例えば、授業中や就寝中なんかに、こっそり正門から運び出しているかもしれないだろう」
「それならわざわざ遺体を地下に移動させる必要はないわ」
ジョーは顎をさすった。
「なるほど。確かに君の言うことももっともだ。だけど、あくまで推理に過ぎない。クリスじゃないが、それだけで、脱出方法が見つかったというのは気が早いんじゃないか?」
「あのとき、わたしは見たのよ」
「見たって何を?」
「羽よ。羽が舞うのを見たのよ」
「どういうことだ?」
「わたしは、キララがお守りだと言ってくれた鳥の羽を持っていたの。ふたりの遺体を見たとき、驚いて、その羽を手放してしまった。すると、羽が宙を舞ったのよ。あの部屋には風が吹き込んでいた。窓もない、閉された空間なのに風が入って来た。つまり、どこかに外に繋がる道があって、そこから風が入ってきたのよ」
「入り口のほうから吹いた風かもしれないだろう」
「いいえ、羽は入り口のほうに飛んでいったわ」
「しかし、それだけじゃ、心許ないな……」
「だから、可能性の話よ」
「それに、実験室まではどうやって忍び込むんだ? 実験室に入ることができなきゃ、あの地下室にも行けないだろう」
「それも大丈夫」
マリーはそう言って、ポケットを探った。
「これよ」
「この鍵は?」
「トミーがくれたの。わたしが持っているのが一番だって、最後にわたしに託してくれたのよ」
「トミーが……」
「ええ」
「だけど、トミーはあのとき捕まってしまった。学園は生徒が侵入したことにも勘づいているはずだ。となると、用心して、実験室の鍵も変えられているんじゃないか?」
「それも、可能性よ。鍵が変えられている可能性もあるし、変えられていない可能性もある」
「可能性か……」
ジョーは目を瞑って考え込む。
「ええ、可能性よ」
マリーは繰り返し、思案するジョーを見守った。
やがて、ジョーはゆっくり目を開いた。
それから言った。
「やろう、マリー」
その答えを聞き、マリーは安堵とともに「ジョー」と彼の名を口にした。
脱走計画を実行することができるかどうか、それは、ジョーの答えにかかっていた。ジョーは乗ってきてくれた。これで、成否はともかく、行動に移すことはできる。
「実は俺も焦っていたんだ」
ジョーが告白するように言った。
「焦っていたって、何かあったの?」
マリーは訊ねる。
「トミーの部屋でも見つけたんだ」
「まさか」
「そのまさか、さ。奴のベッドの上にも置かれていたよ、あの忌々しいぬいぐるみが」
天使のぬいぐるみ。
被験体に選ばれたことを知らせる合図。
「それじゃ、トミーも順番が来ていたというわけね」
「ああ」
「ということは、トミーは、今度こそ実験室にいる可能性が高い」
「ああ」
「そして、残されている時間は少ない」
「そういうことだ」
「急いだほうがいいわね、ジョー」
「今夜にでも実行しよう」
ジョーが俄然やる気になって言った。
「だけど、もう少しだけ待ってくれるかしら……?」
しかしそこで、今度はマリーのほうが消極的なことを言う。
「どうしたんだ、マリー? 急いだほうがいいって言ったのは君だろう」
「もちろん、そうなんだけど、わたしにはまだ解決しなければならない問題があるのよ」
「解決しなければならない問題って?」
「キララよ。キララは学園のことを知らない。彼女は学園から出るのを嫌がっている。キララをまだ説得できていないのよ」
マリーが説明すると、ジョーは「そうか」と片目を瞑った。
「キララの説得には、もう少し時間が必要だわ」
「よし、それじゃこうしよう。決行は、嵐の夜だ。数日中に大きな嵐が来る。雨風に紛れて俺たちは学園を逃げ出す。そのときまでに君はキララを説得しておいてくれ」
「わかったわ。嵐が来る前にキララを説得してみせる」
マリーは請け合い、それから、もうひとつ確認しておかなければならないことを口にした。
「クリスはどうしましょう?」
マリーの問いかけに、ジョーは眉根を寄せ、やや時間を置いてからこう言った。
「クリスには黙っておこう」
でも、とマリーは言いかけて、やめた。
クリスに話したところで、反対されるに決まっている。それで済むなら、まだいい。クリスが反対するのなら、ジョーとふたりで脱出計画は進めるまでだ。だが、そうなった場合、彼がどういう行動に出るか、読めない部分がある。クリスにはどこか独善的なところがあり、なおかつ、良くも悪くも自身の考えに絶対的な自信を持っている。クリスは自分の考えにそぐわない仲間の勝手な行動を見過ごすとは思えない。考えたくないことだが、自分たち脱出計画を知れば、それを邪魔してくる可能性がある。キララを丸め込んだり、あるいは学園に密告したり、そういうことをしないとは言い切れない。ここでクリスに話して彼と対立するくらいなら、秘密裏に進めたほうが成功の『可能性』は高くなる。
そう考え直したマリーは、「そうね。クリスには黙っておきましょう」とジョーに同意した。




