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危機

 セントラル給湯室の前でジョーと別れ、マリーはひとり中庭を歩いていた。

 空気に湿り気が混じりはじめている。風の勢いも、徐々に増しているように感じられた。

 嵐は近い。

 それまでに、キララを説得しなければならない。無理強いはできない。彼女自身の積極的な意思がなければ、危険な脱出計画などなし得ないからだ。

 何かいい方法はないものか、と塀の向こう、遙か彼方の山林に目を遣ったとき、ある考えが思い浮かんだ。

 が、それはあまりに馬鹿げたやり方だったので、マリーはすぐにその考えを捨てた。

 他の方法、外を恐れているキララが自ら進んで出て行きたくなる方法、そんな方法があるのだろうかと考えを巡らせ、中庭を進むと、前方に人影が見えた。

 大きくて褐色の女性。

 ペイジだ。

 ペイジはマリーに気づくと、まるで突進するイノシシのように、のしのしと近づいてきた。

 迫り来るペイジに気圧され、マリーは咄嗟に進行方向を変えることもできず、その場で固まってしまった。

 ペイジがあっという間に目の前までやってきた。

「こんにちは、マリーさん」

 立ちすくむマリーに向かって、にこやかに声をかける。

 マリーはすぐに返事をすることができない。

 ペイジは本当に味方なのか。彼女を信じていいのか。それがわからなくなっている今、どう彼女に接すればいいのか、それも判断がつかなくなっていた。

「こんにちは」

 ペイジが声の調子を一段階上げて、繰り返した。

「こんにちは、ペイジ」

 マリーは頬を引きつらせながら、ようやく返事をした。

 ペイジが膝を曲げ、マリーと目線の高さを合わせた。

「どうしたの、ペイジ。何かご用?」

 マリーは上擦った声で訊ねた。

「マリーさん、あんなことをしてはダメ」

 笑顔のまま、ペイジがいきなり叱責した。

「あんなことって?」

 ペイジが何のことを言っているかすぐにわかったが、マリーはひとまずしら切る。

「人のあとをつけたり、覗き見したりしちゃ、ダメ」

「わたし、そんなことはしていないわ」

「嘘をついては、ダメ」

 ペイジが屈んだまま近づき、マリーは一歩しりぞく。

「嘘なんて言ってないわ」

「あたしは見たんですよ。あなたが物置小屋から走り去る姿を」

 ペイジがさらに迫る。

 それ以上、とぼけることもできなくなってしまい、マリーは口を噤む。

「あなたはあそこで何をしていたんですか?」

「な、何もしてないわ」

「あなたはあそこで何か見ましたか?」

「何も見ていないわ」

「いいえ、あなたは見たはずです」

「本当に見ていないわ」

「あそこで見たことを、誰にも言ってはいけませんよ」

 マリーはさらに後ずさった。

「もし、誰かに言ったりしたら……」

 ペイジがそこまで言ったとき、マリーはとうとう我慢できなくなり、ペイジに背を向け逃げだした。

「マリーさん」と後ろからペイジの声が追ってきたが、マリーは無視して走り続けた。

 そのまま生活棟のほうまで駆ける。

 怖い。

 マリーは初めてペイジに対して恐怖を抱いた。

 学園に入所した日、ひっぱたいた園長先生をにらみ返すペイジの姿が蘇る。

 あれこそペイジの本性なのではないか。

 人懐っこい笑顔の裏に、園長先生にも劣らぬ残虐な一面を隠して持っているのではないか。

『悪魔は意外なところに潜んでいるものよ』

 ペイジが言っていたあの台詞。あの台詞に出てくる悪魔とは他ならぬ彼女自身のことなのではないか。

 仲間の中に裏切り者がいるように思い込ませ、グループを崩壊させようとしていたのではないか。

 やはり、ペイジは学園側の人間で、仲間のふりをして、自分たちを監視しているのではないか。

 そんな考えが頭をよぎり、マリーは必死にペイジから逃げた。

 生活棟にたどり着くと、壁にもたれかかった。

 それほど長い距離を走ったわけでもないのに、息切れがおさまらない。

 マリーは胸を押さえ、ゆっくり息を吸い、それとおなじくらいゆっくり吐き出し、呼吸を整える。

 ようやく動悸もおさまり、庭のほうを見る。

 ペイジは追ってこない。

「ふう」と目を瞑り、ひときわ大きく息を吐き出した。

 もう大丈夫だ。

 そう思って瞼を開けた瞬間、今度は学習棟の二階の窓から、こちらをじっと見ている人影が目に入った。

 猫目だ。

 マリーに虐待を加えたのち、姿を見せなくなっていた猫目が再び現れ、以前と変わらない粘っこい視線を向けてくる。

「帰ってきた」

 と口をついて出る。

 マリーと目が合うと、猫目の職員は口の端をぐっと持ち上げ、舌なめずりした。

 今度こそ殺される。

 マリーは直感的にそう感じた。

 危機が迫っているのはキララだけではない。

 マリー自身にも悪魔の手が迫っている。

 そのことを肌で感じ、マリーはいよいよ気が急いた。

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