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トリガー

 マリーは一人で歩いていた。

 隣に母さんはいない。

 あちこちで上がっていた、火の手はいつの間にか消えている。

 熱気がなくなり、そのぶん、少し肌寒い。

 マリーは酷く喉が渇いていた。

 息をするたびに喉が痛んだ。

 渇きと飢えで、もう一歩も足を前に出すことができなくなった……。


 

 夜中に目が覚めた。

 いつもの夢を見ていた。

 また夢が進んでいる。

 暗くて、悲しい夢。

 辛くて、苦しい夢。

 見たくないのに、見せられる。思い出したくないのに蘇ってくる嫌な記憶のように……。

 マリーは身体を起こした。

 手が震えている。

 暗やみに目を凝らし、手を見る。

 途端にマリーは、ぎょっとした。

 大きく、骨張っていて、まるでママの手のように見えたからだ。

「ひっ」と思わず声が出た。

 けれど、次の瞬間には小さくて、張りのある、どこか頼りない自分の手に戻っていた。

 マリーは何が起きたかわからず、呆然と手のひらを見つめる。

 二三度、にぎったり、ひらいたりして、確かめてみたけれど、もう何も起こらなかった。

 

 午前の授業が終わったあと、マリーはキララの部屋に行くため、生活棟の廊下を歩いていた。

 クリスの判断により、調査はしばらくのあいだ控えることになった。

 だから、マリーは目立つような行動は避け、何も知らなかった頃の自分に戻ったつもりで、代わり映えのしない毎日を粛々と過ごしていた。

 そのせいか、あの日以来、園長先生が迫ってくることはない。要注意人物としてマークはしているが、いまは泳がせているといった感じだった。

 実験室に忍び込んで以来、計画に進展はない。クリスからの報告もまだない。

 ジョーとはどこか疎遠になっている。

 マリーは足踏み状態にもどかしさを感じつつも、今はそうすべきなのだ、やがて、時期が来ればまた動き出す、焦るんじゃない、と自分を納得させ、そのときの到来を静かに待っていた。

 キララの部屋まで来ると、マリーはドアをこんこんとノックした。

「はい」と中からキララの声が聞こえてくる。

「わたしよ」

 マリーが声をかけると、中から「どうぞ」と返ってきた。

 マリーはドアを開けた。

 キララは窓から外を見ていたようだ。

「モーリスにご飯をあげていたの?」

 マリーは訊いた。

「ええ」とキララは窓の外に顔を向けたまま答えた。

 マリーは窓辺に歩み寄り、キララと並んで外を見た。

 上空を周回するモーリスの姿が見える。

 何にも縛られず、自由に羽ばたくモーリスの様子を眺めていると、マリーは何やら切なくなる。自分にも翼が生えていたなら、そうすれば今すぐにでもこの学園から逃げ出せるのに……

 マリーは無意識にポケットに手を突っ込み、いつも持ち歩いているモーリスの羽を取り出した。

「それは……」

 青い羽に気づいたキララがつぶやく。

「ええ。あなたにもらったお守りよ。わたしはいつもこうして、モーリスの羽を持ち歩いているの」

「それはうれしいわ。その羽はマリーのことを守ってくれるでしょう?」

 キララが期待に満ちた眼差しで、訊ねる。

 マリーは答えに詰まった。

 ケンが学園の犠牲になった。

 トミーが捕らえられた。

 学園の魔の手はすぐそこまで迫ってきている。

 とても効き目があったとは思えないのだけれど、キララの気持ちを傷つけるようなことは言えない。

「そうね。お陰さまで平穏に過ごせているわ」

 マリーはそう嘘をついた。

 そのとき、強風が室内に入り込み、マリーの手にあった青い羽をさらった。

 青い羽が室内をふわふわと踊るように舞う。

 マリーはその様子に目を奪われる。

 風に舞う羽。

 それが何か大切なことを教えてくれているような気がする。

 何だろう……と考え込むマリーに、キララが「マリー」と声をかける。

「えっ?」とマリーは振り返る。

「どうかしたの?」

「ううん、何でもないわ」

 マリーは床に落ちた羽を拾い上げた。

「そうだ、キララ。この前はありがとう」

「何の話?」

「ほら、廊下でわたしのことを助けてくれでしょう」

 マリーが園長先生に詰め寄られたとき、キララが腹痛のふりをして、マリーを助けてくれた。まだそのお礼をきちんと伝えていなかったことを思い出したのだ。

「いいのよ。あなたがとても困っているように見えたから」

 キララは穏やかに答え、ベッドに腰かけた。

 マリーもキララの隣に腰を下ろす。

「助かったわ、本当に」

 もし、あのときキララの助けがなかったら、どうなっていたことか。今頃、こうしてキララとお話しすることもできなくなっていたはずだ。

「だけど、マリー、あなたいったい何をしたの? 園長先生の様子は普通じゃなかったわ」

 この学園は生徒を実験に使っている。自分たちは学園のことを探っている。それを園長先生に勘づかれそうになり、あんなことになった。

 すべてキララに打ち明けたい衝動に駆られたが、そんなことを言えるはずもない。

「園長先生は何か誤解なさっていたらしいわ」

 マリーは曖昧に答えた。

「それならいいんだけど、マリー、園長先生に誤解されるようなことしちゃだめよ」

 キララが忠告する。怒ってはいないのだろうけど、険しい表情を浮かべ、マリーの身を案じている。こういうときのキララは自分よりもずっと大人びて見える。

「わかってるわ、キララ。心配してくれてありがとう」

 それで、マリーはしおらしく答えた。

「それから、クリスやジョーや、それにトミーとばかり一緒にいないで、キララとも遊んでほしいわ」

 かと思うと、キララは一転して、口をとがらせ幼い口調で拗ねてみせる。

「ごめんね、キララ」

 マリーは表情をほころばせたが、そのあとすぐ真顔に戻った。

 そして、低い声で訊ねた。

「キララ、今、何て言ったの?」

「何が?」

「今、あなたが言ったことをもう一度聞かせてくれる?」

「キララとも遊んでほしいわ……そう言ったと思うけど……」

「その前よ」

「その前? クリスやジョー、それにトミーとばかり一緒にいないで……だったかしら?」

 マリーの突然の問いかけにキララは不安そうに答える。

「そうよ、あなたはトミーと言ったわ。あなた、トミーのことを憶えているの?」

 マリーが勢い込んで訊ねる。

 キララが目をぱちくりさせる。

「どうしちゃったの? マリー」

「答えて、キララ。あなた、トミーを憶えているのね?」

 マリーは繰り返す。

「憶えているってどういうこと? トミーはトミーでしょ。キララはトミーのことを忘れたりしないわ。あの人、あれで意外と優しいところがあるのよ。トランプでお山を作ってくれたり、絵本を読んでくれたり。だけど、このところ、お見かけしないわね。いったいどうしたのかしら?」

 キララは呑気な調子で言って、首を傾げた。

 マリーは考える。キララは学園に捕らえられたトミーのことは憶えている。生徒が行方不明になると、他の生徒たちはその生徒のことを忘れる。そうではなかったのか?

「ねえ、キララ、もう一つ教えてくれるかしら?」

 マリーは質問を続けた。

「何かしら?」

「あなた、ケンという子のことは憶えている?」

 マリーが訊ねると、キララはリンダのことを訊ねたときと同じ困惑の表情を浮かべた。

「ケン?」

「ええ、ケンよ。太っちょのケン」

「キララ、そんな子、知らないわ」

 キララが素っ気なく答えた。

 なぜキララは、リンダやケンのことは忘れているのに、トミーのことは憶えているのか。共通していることは、三人とも学園から消えたこと、異なることは、ケンとリンダの死は確認しているが、トミーの死は確認いしていないこと……。

「キララ、本当のことを言ってね」

 マリーはキララに不審がられないよう、できるだけ柔らかい口調で言った。

「キララは、これまで嘘をついたことなんてないわ」

「そうね、ごめんなさい。それじゃ、訂正するわ。もう一度確認させてくれる?」

「ええ」

「キララはケンやリンダという子のことは知らないのね」

「知らないわ」

「トミーのことは知っているのね?」

「だから、それはさっき答えたわ」

「知っているのね?」

「もちろんよ」

 キララは死んだリンダやケンのことは忘れている。生死が不明のトミーのことは憶えている。

 これまで、自分たちは、生徒が行方不明になると、他の生徒たちはその生徒のことを忘れると思い込み、何が引き金になっているのか深く考えたこともなかった。

 忘却のトリガーは、生徒が行方不明になることではない。

 生徒の死なのではないか。無論、生徒の記憶を奪う方法は依然として不明だ。だが、何かをきっかけにそれが起こっているのは間違いなく、そのきっかけを今キララが教えてくれたのではないか。

 そう断言するのはまだ早いかもしれない。

 けれど、もしマリーの推測が正しければ、トミーはまだ生きている可能性がある。

 マリーは立ち上がった。

 トミーが生きているかもしれない。

 早くこのことをクリスたちに伝えなければ。

「もう帰るの?」

 キララが寂しそうに訊いた。

「ごめんね、キララ。わたし、急用ができちゃったの」

 キララは長い睫を伏せて「そう」と呟いた。

「そんな顔しないで。また、遊びに来るわ」

「本当に?」

 いつになくキララが執拗だから、何かあったのかと気になる。

「どうかしたの、キララ?」

 マリーはベッドに座り直し訊ねた。

「キララ、心配なの」

「心配って何が?」

「キララ、怖いの。このまま、マリーがどこかに行っちゃうんじゃないかって、そんな気がするの」

 キララが顔を上げた。その表情は真剣そのものだ。

 キララは勘の鋭い子だ。幼いけれど、いや、幼いからこそ、直感が鋭く、何かを感じ取ることがある。そのキララから予言めいたことを言われ、マリーはかすかに動揺した。

「心配しないで、キララ。わたしはどこにも行かない。ずっとキララのそばにいるわ」

 どちらかというと、自分に言い聞かせるように、マリーは答えた。

「本当?」

「本当よ」

「約束してくれる?」

「ええ」

「それじゃ、指切り、しましょう」

 キララが右手の小指を出した。マリーは、「かまわないわよ」と応じてその小指に自分の小指を絡ませた。

「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本飲ます」

 キララはリズムをつけて歌い、最後に、「指、切った」とふたりで声を合わせて、小指を離した。


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