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裏道

 数日後、集合を知らせる本が本棚に挟まっていた。

 やっと、このときが来た。

 マリーはずっとこの合図を待ち焦がれていた。

 これで、計画を前に進めることができる。学園の秘密に近づくことができる。

 何より、これでクリスとジョーに知らせることができる。

 少し前、マリーは園長先生に詰め寄られた。

 あの様子からして、学園はもう自分たちに気づき始めている。これまでにない危機が、明確な形で、すぐそこまで迫っている。

 一刻も早くそのことをふたりの仲間に伝えなければならなかった。

 その日の夕方、マリーは焦る気持ちを抑えて、例の物置小屋に向かった。

 早く仲間に会いたかったが、その一方で、学園に勘づかれつつある今、これまで以上に警戒して行動しなければならない。

 マリーは周囲に気を配り、慎重に物置小屋に向かった。

 その途中でいきなり「マリー」と声をかけられた。

 あまりに唐突だったので、マリーは驚き、ビクッと肩をふるわせた。

 振り返ると、クリスが立っていた。注意しながら歩いていたつもりなのに、いつの間にかクリスがすぐ近くに来ていたらしい。

「どうしたの、クリス?」

 マリーは声を潜めた。普段から仲間同士でのむやみな接触は避けている。まして今は相当危険な状況なのだ。それなのに、不用意に声をかけてくるクリスに、マリーは苛立ちさえ覚えた。

「君に話しておかなければならないことがある」

 クリスは何やら差し迫った様子で言った。どうやらクリスも油断しているわけではなく、それ以上に重要な用件があるらしい。

「わかったわ。話は例の場所で聞くわ」

 マリーは手短に答えた。

 しかし、クリスは、「いや、その前に話しておきたい」と食い下がった。

「だけど、わたしたちが一緒にいたら怪しまれるわ」

「それじゃ、裏道を通って小屋に行こう。その途中で話す」

「裏道って?」

「いいからついて来てくれ」

 強引にそう決めてしまうと、クリスは物置小屋とは別の方向へ歩き出した。

 どうしたものかと迷ったが、他にどうしようもなく、結局、マリーはクリスに従った。

 クリスの言う裏道とは、生活棟の裏を通るルートだった。小屋へは遠回りになるけれど、監視カメラの死角になっているし、昼間は職員の巡回ルートからも外れている。盲点といえば盲点なのだが、頻繁にここを通るとかえって怪しまれるため、あえて避けていたルートだ。

 生活棟と高い塀に挟まれた薄暗い一本道に入った途端、マリーは、また、おかしな感覚に襲われた。この小径は長さで言うと、生活棟の廊下とおなじくらいになるはずだ。なのに、どこまでも続いているように思える。それだけじゃない、右側の塀も、昨日見たとき、いや、最初に見たときよりも高くなっている気がする。

「クリス、わたし、近頃、おかしいの」

 我慢できず、マリーのほうが先に口を開いた。

「どうしたんだい、急に?」

 クリスは首を捻って訊き返した。

「近頃、奇妙な感覚に囚われるの」

「奇妙な感覚?」

「ええ。昨日よりも廊下が延びている。前日よりも壁が高くなっている。前の日よりも階段が増えている。そんなふうに感じるの」

 クリスは、マリーのおかしな告白を真面目な顔で聞いている。

「自分でも馬鹿げていると思うわ。だけど、これまで何度もそんなふうに感じることがあったの。ううん、それだけじゃないわ。急に先生の顔が変わったように思うこともある。以前は簡単に解けた問題が突然わからなくなる。季節もわからなくなるし、いまがいったい何月何日なのかもわからなくなる。冬になれば夏の暑さを忘れるように、何もかも忘れてしまうの」

 マリーの話を黙って聞いていたクリスが、しばらく考え込んだあと、静かなに話し出した。

「僕が思うに、それは記憶の混乱だよ」

「記憶の混乱?」

「ああ、そうさ。マリー、君は記憶のメカニズムを知っているかい?」

 クリスがいきなり訊ねた。

 知るはずもないマリーは首を振った。

 すると、クリスはこほんと喉を鳴らし「いいかい、マリー」と話出した。

 時々、彼は難しい授業をする先生のようになる。

「僕たちの脳には、ニューロンと呼ばれる神経細胞が無数にある。このニューロン同士が複雑に結びつき、信号をやり取りすることで、僕たちは物事を憶えたり、思い出したりしている。何かを経験すると、ニューロン同士の繋がり方や、信号の伝わりやすさが変化する。何度も同じことを経験すれば、その繋がりはさらに強くなる。そうして脳の中に、記憶の痕跡のようなものが残るんだ。これを神経可塑性という。針金を曲げると、針金は曲がったままだろう。これも可塑性だ。だが、この新しく作られたニューロンの繋がりは絶対じゃない。何らかの理由で、壊れることがある。ニューロンのネットワークが崩壊したとき、人は物を忘れるんだ。ネットワークを破壊する要因には様々なものがある。最も有力なのはコルチゾールなどのストレスホルモンだと言われている。

 要するにこういうことだ。君は突然この学園に入れられ、強いストレスを感じた。それだけじゃない、学園の秘密に触れ、ひどく不安定な状態に陥った。そのストレスがニューロンに悪い影響を与え、その結果、一時的な記憶の混乱が生じた。そういうことじゃないかな」

 話し終わると、クリスは、患者の診察を終えた医者のように、見る人に安心感を与える笑みを浮かべた。

「つまり、ただのストレスで、気にする必要はないってこと?」

 マリーもまた、患者にでもなったような気分で訊ねた。

「そういうことだ。一時的な健忘や記憶の乱れはよく起こることなんだ。心配するようなことじゃないよ」

 そういうものなのだろうか……。

 廊下が延びる。

 先生の顔が変わる。

 季節も日付もわからなくなる。

 いま自分の身に起きていることは、そういう記憶の混乱とは根本的に違うもののように思える。

 だが、それを上手くクリスに伝える言葉をマリーは持ち合わせていなかった。

「そうね。そうかもしれないわね……」

 腑に落ちない声でマリーが言ったとき、前方に大きな金属製の箱が見えた。

 その箱の前で、クリスが足を止めた。

「そんなことよりマリー、君に話しておきたいことがあるんだ」

 クリスは本題に戻した。

「そうだったわね。それで、あなたの話って?」

 マリーも立ち止まって訊ねる。

「まずは、これを見てくれないか」

 クリスは手に持っていたファイルを差し出した。

「実験室にあったファイルね」

「うん」

「何か見つかったの?」

「学園の秘密とは直接関係ないんだけど」そう前置きしてクリスは、ファイルを開いた。「ちょっとこのページを見てくれないか?」

 マリーは身を寄せて、そこをのぞき込む。

 そこにはジョーのことが書かれている。

「ジョーね」

「うん」

「ジョーの何が気になるの?」

「ここだ」

 クリスが開いたページの右上あたりを指さした。そこにはジョーの入園日が記載される。

「これは……」

「そうなんだ。このファイルの情報によると、ジョーの入園日は十年前となっている。ジョーは十年も前からこの学園にいるんだ」

「十年……」

 マリーはつぶやく。

 この学園は何かの実験を行うための施設で、子どもたちはその被験体だというのが、マリーたちの仮説だ。どんな実験なのかはいまもって不明だが、被験体を十年も生かすというのは、奇妙ではないか? 実験体の生存期間としては長過ぎはしないか?

「リンダやケン、それに他に行方不明になった生徒のも見てみた」

「ええ」

「ジョーの次に長く生存していたのは、リンダだった。そのリンダでも三年と四ヶ月だ。他の行方不明者たちもおおむね二年から三年のあいだに被験体として使われている。おそらく、被験体として使えるようになるまである程度の期間が必要なんだろう。それは十分に考えられることなんだが、それにしても十年は長すぎると思わないか?」

「確かにそうね」

「それだけじゃない。ジョーはそのことを僕たちに隠していたんだ」

「どういうこと?」

「彼と知り合ったばかりのころ、彼は僕にこう言ったんだ。『俺のほうが少しだけ先輩だな』ってね」

「確かなの?」

「うん。さっきの話じゃないけど、僕は記憶力がいいほうなんだ」

 クリスの記憶力がいいことに異論ないから、「そうね」とマリーは頷いた。

「厳密には嘘ではない。ジョーが僕よりも先に入園していたことは間違いないからね。先輩であることは確かだ。だが、十年を、少し、と言えるだろうか?」

「それは確かに変だけど……。でも、ジョーはなぜそんなことをしたのかしら」

「それはわからない。だが、ジョーは僕たちに隠し事をしていた。それだけは間違いない」

 だからどうしたと言うのだ。

 いつもと違い、クリスはどこか持って回った言い方をする。

「それだけじゃないんだ、マリー」クリスは話を続ける。「実験室に忍び込んだとき、予定外の時間に巡回が来ただろう」

「ええ」

 そのせいでトミーが捕まってしまったのだ。

「僕に巡回の時間を教えたのはジョーなんだ」

「どういうことなの、クリス?」

「ジョーは僕に誤った情報を教えた」

「ジョーは何か勘違いをしていたってこと?」

「それだけだろうか?」

「あなたが何を言おうとしているのかわからないわ」

「ジョーは脱走を試みて、捕らえられた。なのに、無事に戻ってきた。よく考えれば変だと思わないか?」

「だけど、それは前に話し合った通り、わたしたちは貴重な存在だから、実験に使うまでは生かしておくってことじゃなかった?」

「塀を乗り越え脱走しようとする危険分子まで生かしておくだろうか?」

「さあ、わたしにはわからないわ。クリス、あなた何を言おうとしているの? 話が見えないわ」

「ジョーはこの学園を出たがっていた。そのためなら、何でもする男だ。この高い塀を乗り越えることだって」クリスは天までも届きそうな高い塀を見上げる。「学園側に協力することだって」

 クリスの言葉にマリーは目を大きく開いた。

「まさか……まさか、あなたは、ジョーがわたしたちを裏切っていると言いたいの?」

 クリスは声を震わせた。

「はっきりとは言い切れない。だが、それを否定できる証拠もない」

『悪魔は意外なところに潜んでいるものよ』

 ふいに、ペイジの言葉がよみがえる。まさか、あれはジョーのことを言っているのか。ジョーが自分たちを裏切っていると気づいていて、それを教えようとしたのか?

「そう言えば……」

 ペイジの言葉をきっかけにマリーはあることを思い出した。

「どうしたんだい?」

 クリスが訊く。

「わたしが捕らえられたとき、鼻歌が聞こえてきたの」

「鼻歌?」

「ええ。そして、ジョーと初めて中庭で出会ったとき、彼はおなじ歌を口ずさんでいた」

「だけど、そのときはジョーも捕らえられていたから、近くの部屋に彼がいただけかもしれない」

「わたしも、そうかもしれないと思って、気にも留めていなかった。だけど、気を失う直前に、わたしは見たの。園長先生の後ろにひとりの男子生徒が立っているのを」

「その男子生徒がジョーだって言うのかい?」

「わからないわ。誰だかはっきりは見えなかったから」

 マリーはクリスの顔を見る。

 クリスは腕組みをして考え込んでいる。

「クリス、わたしたちはこれからどうすればいいの?」

「ジョーが僕たちを裏切っているかもしれない。だけど、いまはまだ可能性に過ぎない。彼が裏切り者だというはっきりとした証拠を掴むまでは気づかないふりをしておこう。だが、用心は怠ってはならない」

 クリスが言った。

 自分たちの中に裏切り者がいるかもしれない。信じられない。この恐ろしい学園に立ち向かうための唯一の武器が、仲間たちとの絆だ。学園の異常に勘づいたわずか数名の仲間たちとの強い絆、それだけが自分たちにはあって、学園にはない、たったひとつの強みなのだ。その唯一の拠り所さえも崩れ去ろうとしている。これから自分たちは何を信じ、何を支えにして学園と戦えばいいのだ。

「マリー」

 悲嘆に暮れるマリーの肩にクリスが手を乗せる。

 マリーは顔を上げる。

「気持ちを強く持つんだ、マリー。まだそうだと決まったわけじゃない。僕たちだけでもしっかりしなければ」

 クリスはそう言って、無理やり口の端を上げた。

「そうね」

 マリーもそれにならって笑みを作り、何度か小さく頷いた。

 ふたりは物置小屋に向かって、再び歩き始めた。

 クリスから衝撃的な話を聞かされたマリーは足もとに視線を落としたまま歩く。足取りも重く、いつの間にか、クリスが数歩先を歩いている。

 俯き加減で歩くマリーの足もとで光るものがあった。

 マリーはほとんど無意識にかがみ込んで、それを拾い上げた。

 青石だ。

 ジョーと中庭で初めて会ったとき、彼は小石を拾っていた。この小石がジョーのものかどうかはわからない。けれど、あのとき見せてもらったものと似ているように思う。それに、ジョーは青石は珍しい石だと言っていた。どこにでも落ちている石ではない、と。

 ということは……

 ジョーもこの道を通ったということか? 

 マリーは振り返り、たったいま通ってきた裏道を見る。

 ジョーはいったい何のために、この道を通ったのだ?

「マリー」

 考え込むマリーの耳に、クリスの声が届いた。

「え、ええ」

 マリーは青石を握りしめ、少し先を歩くクリスのところに駆け寄った。

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