迫る影
3
『だがもし、人間が青い鳥を見つけ出したら、人間はすべてを知り、すべてを見るでしょう』(モーリス・メーテルリンク『青い鳥』)
「百から七を引くと、いくつになるでしょう」
教壇から先生が問題を出す。
「九十三です」
ひとりの生徒が答える。
「はい、正解です。では、九十三からもう一度七を引くと、今度はいくつでしょうか?」
「八十六」
また別の生徒が答えた。
マリーはいつも以上に落ち着かない気持ちで午前の授業を受けていた。
昨夜、実験室に忍び込んだ。
その奥にある地下室で、リンダとケンの遺体を見つけた。
トミーは、自分たちを助けるため囮になった。
そして、自分たちは命からがら逃亡した。
それなのに、いま自分はまたいつも通り授業を受けている。
何事もなかったかのように過ごしている。
それがあまりに奇妙で、昨日の出来事は夢か幻だったのかと疑いたくなる。あるいは、いまもあの夜が続いていて、自分たちは学園に捕らえられているのではないか、そして、いま見ている光景は、実験による幻影なのではないか、そんなことまで考えしまう。
「八十六から七を引くといくつでしょうか?」
先生の声が遠くのほうから聞こえる。
「マリーさん」
急に自分の名前を呼ばれ、マリーはどきりとした。
「どうしたんですか、ぼうっとして。さあ、答えてください。八十六から七を引くといくつになりますか?」
先生が問題を繰り返す。
簡単な算数の問題だ。
八十六から七を引く。
その答えをマリーが口にしようとすると、頭の中に靄がかかった。
まただ。
また、こんな簡単な問題の答えがわからない。
「わかりませんか、マリーさん?」
先生が迫る。
マリーは答えられない。
「簡単な問題ですよ」
先生はそう言って小さくふっと嘆息した。
その瞬間、マリーは首を傾げた。
先生はこんな人だったろうか。
こんなに痩せていただろうか。
こんなに髪が短かったろうか。
こんなに髭を生やしていただろうか。
必死に記憶をたぐるのだけれど、先生の顔が思い出せない。簡単な算数の問題がわからないように靄がかかって、像を結ばない。
何が起こっているのだろう。
昨夜は眠ることができなかったから、疲れているだけだろうか。
あるいは、本当に昨日の夜が続いていて、幻覚でも見ているのだろうか。
マリーがそんなおかしな考えに取り憑かれていると、先生は、「それじゃ、次の方、答えてください」とマリーの後ろの席の生徒に質問を振った。
「七十九です」とその生徒は答えた。
授業が終わり、マリーは廊下を歩いていた。
昨夜、別れ際にクリスから、潜入のことは次の会合でじっくり話し合う、それまでは普段どおりに過ごしておくように、と言われていた。
だから、いまは大人しくするよりほかない。
「マリー」
とりあえずレクリエーションルームにでも行こうと廊下を歩いていると、キララが別の教室から駆け寄ってきた。
今朝、授業が始まる前、キララに聞かされた。
今日から一組に移動させられたと。
頑張ってお勉強していたのに、とキララはショックを受けていたが、もう立ち直っているようだ。むしろ、キララと別クラスになったマリーのほうが落ち込んでいるくらいだ。
「キララ」
マリーは声をかけた。
「どこに行くの?」
「レクリエーションルームよ」
「それじゃ、キララと一緒にトランプをしましょうよ」
キララが誘い、断る理由もないので、マリーは、そうしましょう、と頷いた。
ふたり並んで廊下を歩く。
「キララ、新しいクラスの授業はどうだった?」
マリーは訊いた。傷心しているのではないかと心配したが、キララは、「簡単だったわ」と屈託なく答えた。
その様子に安堵しつつ、廊下を歩いていると、マリーはふと疑問に思った。
学習棟の廊下はこんなに長かったろうか?
昨日よりも長く感じる。一昨日よりも伸びているような感じがする。
また、この感覚だ。
「ねえ、キララ、ここの廊下ってこんなに長かったかしら?」
マリーは思い切って訊ねてみた。
「え、何?」とキララが訊き返す。
「廊下が昨日より長くなっているような気がしない?」
「何を言ってるの、マリー、そんなことあるわけないじゃない」
そう答えて、キララがくすくす笑う。
そうだ。
廊下が延びるなんてこと起こるはずがないのだ。
「そうよね。わたし、おかしなこと言ってるよね」とマリーも笑った。
ふたりは恋人同士のように手を繋いで廊下を歩く。
長くなるわけがない。
伸びるわけがない。
そう繰り返して歩いていると、前方の角から、園長先生がいきなり、ぬうと現れた。
園長先生の突然の登場に、マリーはほとんど条件反射的に全身を強ばらせた。
園長先生はマリーに気づくと、まるで獲物を発見した鷹のように、カツカツと大仰な足音を立て、まっすぐこちらに向かって来た。
「マリーさん」
ふたりの目の前で立ち止まった園長先生が、マリーにだけ声をかけた。
「はい」とマリーは目を泳がせ答える。動揺を表に出してはいけないことはわかっているのだけれど、うまく抑えられない。
「少しお伺いしたいことがあります」
園長先生はマリーの鼻先まで顔を近づけた。
「何でしょうか?」
マリーは頬をひくつかせて訊き返す。
「あなた、昨日の夜はどこにいらしたの?」
何の前置きもなく問われ、マリーの心臓がひとつ大きく跳ねた。
「昨日の夜、どこにって……いつもどおりお部屋で寝ていました」
「本当のことをおっしゃい」
「本当です」
マリーはしっかり園長先生の目を見て答えた。そんなふうに振る舞えたのは、もしここでボロを出したりしたら、とんでもないことになるという恐怖からに過ぎない。
「そうですか」
園長先生はすうっと姿勢を正した。
「あなた、クリスさんと一緒にいらっしゃることが多いわね」
話を変えたが、裏で話はつながっている。そう判断したマリーはさらに気を引き締めた。
「どうしておなじクラスの人ではなく、違うクラスの、それも男性であるクリスさんや、そのお友だちと一緒にいるんですか?」
「それは……、クリスは最初にできたお友だちで、その……一緒にいると楽しいからです」
マリーはだんだんしどろもどろになってくる。
「それだけですか?」
「はい、もちろん、それだけです。一緒に本を読んだり、ゲームをしたり、それが楽しいからです」
マリーは必死に言葉を継いだ。
園長先生が目を瞑って、顎を持ち上げる。ゆっくり、長く、鼻から息を吐き出し、ふたたびマリーに耳元に顔を近づけた。
「あなた、いったい、何を企んでいるの?」
園長先生は、一言一言、言葉を区切って訊ねた。
もうだめだ。
園長先生は、とっくに気づいている。
昨夜、実験室に忍び込んだこともばれている。
学園の秘密を探っていることも、すでに知られている。
涙がにじんできた。この涙を園長先生に見られたらおしまいだ。自分は学園のことを探っています、と園長先生に白状するようなものだ。
「痛い、痛い、痛い」
マリーが観念の涙をこぼしてしまいそうになった、その寸前、キララが突然お腹を押さえてしゃがみ込んだ。
「どうなさったの、キララさん?」
園長先生はマリーから目線を外し、うずくまるキララを見た。
「痛い、痛い、お腹が破れる」
キララはうずくまるばかりでなく、廊下でのたうちまわり始めた。
騒ぎを聞きつけ、他の生徒たちも集まってくる。
「痛い、痛い、痛いわ」
キララはうめき声を大きくした。
見かねた園長先生は「仕方ありませんね」と物憂げに言い、それから「誰かいませんか」と大きな声で人を呼んだ。
巨体の職員が、よく躾けられた犬みたいに、どこからか駆け寄ってくる。
「医務室に運んで差し上げなさい」
園長先生が命じると、巨人はまるで人形でも拾うように、軽々とキララを持ち上げた。
巨人に抱きかかえらて遠ざかるキララが顔を上げ、マリーに向かって小さくウィンクした。
どうやら、マリーを救うためにひと芝居を打ってくれたらしかった。
ありがとう、とマリーは目配せし、どさくさに紛れてその場を離れようとした。
「マリーさん」
それに気づいた園長先生が呼び止めた。
マリーは立ち止まる。が、振り返りはしない。
「くれぐれも、おかしな真似はなさらないように」
園長先生の脅すような声が背後から聞こえてきた。
マリーは顔だけそちらに向けた。
園長先生は、それだけ言い残すと、腰を上下に動かしハイヒールで床を打ち鳴らし歩き去っていった。
その姿を見届けると、マリーは一目散に駆け出した。
一刻も早く新鮮な空気を吸いたかった。レクリエーションルームに行く気などとうに失せていたから、そのまま中庭に向かった。
学習棟から出たとき、ようやくマリーは息ができたような気がした。
大きく吸い、ゆっくり吐き出し、もう一度吸う。何度か繰り返しているうちに、少しずつ落ち着いてきた。
キララのお陰で、今日のところは助かった。けれど、あの様子だと園長先生はすでに勘づいている。学園の手はすぐそこまで迫っている。その手がいつ首にかかってもおかしくない。
今日、明日にでも捕らえられ、また、あの地下室に連れて行かれて、拷問されるかもしれない。そうなったら、もうしらを切りとおす自信はない。きっと、今度こそ全部白状してしまう。自分がしていることも、クリスたちのことも。そうなれば元も子もない。いままの努力も、払った犠牲も、すべてが無駄になる。
その前に片を付けなければならない。状況は差し迫っている。残された時間は少ない。一刻も早く学園の秘密を暴き、外の世界に逃げ出さなければ、本当に何もかも終わってしまう。
マリーは迫り来る脅威を背中に感じながら、顔を上げた。
正門が目に入った。
いつも閉ざされている門。だが、あそこだけが唯一、外界と繋がっている。
あの先に行けたならば……。
そう思いながら正門を見つめていると、また小さな違和感が胸に起こった。
『REUTERUS』
正門に掲げられた銘板の文字。
入園した日、パパの運転する自動車の窓からこの銘板を見たときに感じた、その違和感が再び顔を覗かせる。
「ロイタース」
マリーは銘板の文字をつぶやく。
なぜ自分はこの文字に引っかかったのだろう。
なぜ違和感を抱いたのだろう。
その違和感は、クリスたちの仲間に入り、学園のことを調べ始め、食堂の窓の位置に疑問を抱いたときとおなじ種類のものだった。
「ロイタース、ロイタース、ロイタース……」
マリーはその違和感の正体を掴もうと、銘板の文字を何度も呟いた。




