ケンの消失
決行の日がやって来た。
マリーは暗い自室でベッドに横たわり天井を見上げていた。
就寝時間が過ぎたあと、廊下に向かって耳を澄まし、二回目の巡回、すなわち深夜十二時の到来を待ち続けていた。
十一時の巡回は終わった。
次の巡回が来て、それが去れば、時間だ。
部屋を出て、中庭の噴水前で仲間と落ち合い、実験室に忍び込む。
ついにこの時がやって来たわけだが、不思議なくらい気持ちは落ち着いていた。
上手くいくかどうかは、わからない。失敗は、死を意味する。これから途方もない困難に挑もうとしている。なのに、マリーの心は驚くほど凪いでいた。覚悟を決めたというよりも、なるようにしかならないという居直りに近いかもしれない。
窓の向こうから、鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。
鈴虫? とマリーは一瞬おかしな感覚に囚われる。
鈴虫の鳴く時期だったろうか?
わからない。
わからないが、鈴虫の奏でる音色を聞いていると、大事の前とは思えないくらい、長閑な気分になる。
ずっと昔、どこかでママやパパと一緒に聞いたことがある。あれは、いつだったろう、場所はどこだったろう……。
マリーが記憶を探っていると、二度目の巡回の足音が遠くから近づき、部屋の前を通り、再び遠ざかり、やがて消えた。
時間が来た。
マリーはゆっくり起き上がり、ベッドを抜け出した。
部屋を出る前、マリーは机の引き出しを開け、青い羽を取り出した。お守りだと、キララがくれたモーリスの羽だ。本当に御利益があるかどうかは、どうでもよく、ただ、心の支えになるようなものがほしかったのだ。
マリーはしばし青い羽を見つめ、うまくいくようにと願いを込めてポケットにしまい、部屋を出た。
静かだ。
この世には自分だけしか存在していないのではないかと錯覚しそうなほどの静寂に耳鳴りのようなものさえ感じた。
マリーは靴を手に持ち、足音も立てずに廊下を渡る。
階段を下りる。一階の廊下にも人気はない。生活棟の通用口に到達し、ドアノブに手をかけた。扉に鍵は掛かっていない。すでに仲間の誰かが、生活棟を抜けたということだろうか。
マリーは慎重にドアを開け、身体を外に出し、開けるときよりいっそう慎重に閉めた。
夜気は凍えるほど冷たく、小さく身震いする。
手に持ってきた靴を履き、中庭に向かう。早く仲間に合流したくて、自然と早足になる。
中庭に到着した。
周囲を見回す。
誰もいない。
まさか、日にちを間違えたか? あるいは時間を間違ったか? いや、そんなミスを犯すはずがない。緊張がマリーを混乱させる。
「マリー」
焦るマリーの耳に、微かに声が聞こえてくる。
声のするほうに顔を向け、目をこらすと、中庭の植木の陰で手招きする人影が見える。
ジョーだ。
仲間の姿を目にし、ほっとしたマリーは彼の元に急ぐ。
植木の陰には、クリス、ジョー、トミーの三人がいた。
仲間と無事に合流できて安堵するマリーとは対照的に、彼らの表情は硬い。
「何かあったの?」
不穏な空気を察知し、マリーは訊ねる。
「ケンが来られないかもしれない」
クリスが答える。
「どういうこと?」
マリーは三人に訊く。
「今朝から彼の姿が見えない」
クリスはそう答えたあと、「らしい」と付け加えて、トミーの顔を見る。
「そ、そうなんだ」トミーが言葉をつっかえさせながら話し出す。「ぼ、僕とケンは一緒にいることが多いんだけど、突然、姿を見せなくなった。お、おかしなことが起こったのは、三日前だ。ケンは僕とおなじ七組なんだ。けど、突然、ケンだけ一組に移動させられた。そ、それでも、休憩時間なんかは一緒に過ごしていたんだけど、今日は、朝から彼を見ていない。昼食のときも、休憩のときも一度姿を見せなかった。か、彼の部屋も確かめたんだけど、も、もぬけの殻だった」
「どういうことだ?」
ジョーが相手を特定せずに訊ねる。
「彼も選ばれてしまったのかもしれない」
クリスが、恐らくここにいる全員が考えているであろう結論を口にした。
「まさか……」とマリーは呟く。
「今夜のところは延期したほうがいいかもな」
ジョーは眉間に皺を刻んで提言した。
マリーも同感だった。計画には仲間全員の力が必要だ。一人でも欠ければ、それだけ危険は大きくなる。失敗は許されないのだ。何より、ケンが選ばれたかもしれないということがショックで、気勢をそがれてしまった。
みなおなじ気持ちなのだろう、沈黙の時間が流れる。
そんな中、クリスが毅然と声をあげた。
「いや、今夜、実行しよう」
三人の視線がクリスに集まる。
「だが、ケンの抜けた穴はどうする? ケンなくして計画を完遂することはできない」
ジョーがすぐさま異議を述べる。
「ケン抜きでやる」
「危険すぎる」
「トミーに頑張ってもらうしかない。見張りはトミーに一人に任せる。多少リスクは高くなるが、ケンの抜けた穴はトミーに埋めてもらう」
「わたしが見張り役に回れば?」とマリーが意見すると、クリスは「ダメだ」と即座に退けた。
「調査の目を減らすことはできない」
クリスが言い足した。
「でも……」
マリーがしどろもどろになる隣で、トミーが弱々しい声で喋り出した。
「ご、ごめん、クリス。ぼ、僕には無理だ。ぼ、僕にケンの穴は埋められるわけがない。そ、それに、ケンとは親友だったんだ。そ、その彼が選ばれたかもしれないんだ。こ、今夜はそんな気持ちになれない。ご、ごめん、クリス、ごめん」
詫び言を口にするトミーに向かって、「だから、今夜やるんじゃないか」とクリスが叱咤した。
トミーは、どういうことだというふうに、首を捻った。
「行方不明になった生徒はどこに運ばれる?」
クリスは訊く。
トミーはしばし考え、「じ、実験室か」と答えた。
「そうだよ、トミー。もし仮にケンが選ばれたのだとしたら、ケンは実験室にいるかもしれない。今夜忍び込めば、彼を助けることができるかもしれないんだ」
クリスはトミーの肩に手を乗せる。
トミーはほとんど苦悶といっていい表情でクリスを見る。
「トミー、時間がないんだ。ケンを助けたくないのか?」
「ぼ、僕にできるだろうか?」
「できるとも」
その言葉が決め手となり、トミーの顔に決意が戻る。
「よ、よし、やろう。け、ケンを助けるんだ」
クリスも、よし、と頷き返し、今度はジョーとマリーのほうを振り返る。
「ジョー、君はどうする?」
ジョーは腕を組んで深沈し、やがて、「わかったよ。ケンがいるかもしれないなんて言われたらやるしかないだろう」と多少の不満を残しつつも応じた。
「マリー、君は?」
「あなたたちがやるというのに、わたしだけやらないなんてことできないわ」
「決まりだ。それじゃ、計画を少し修正して、これから実験室に潜入する。みんな覚悟はいいね」
クリスはそこにいる全員の顔を見回して言った。
四人は無言で、大きく頷いた。
「じゃあ、行こう」
クリスが言った。




