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潜入前

 実験室への潜入は一週間後と決まった。

 計画の立案者はクリスだ。

 その内容はこうである。

 潜入は、皆が寝静まった真夜中に行う。

 これまでの調査で、月に一度、監視が手薄になる日のあることがわかっていた。その日が、ちょうど一週間後にやって来る。しかも、この夜は新月で、闇に紛れて行動するにはもってこいだった。

 クリスの話によれば、夜の巡回は一時間ごとに行われる。ただし、深夜一時の巡回は宿直の職員が仮眠を取るため、行われない。つまり、午前零時の巡回が終わってから深夜二時の巡回まで、二時間の空白が生まれる。この時間を利用する。

 零時の巡回が終わったあと、中庭の噴水前に集合し、次の巡回が来るまでの二時間のあいだに実験室に潜入し、調査を行う。学習棟と実験室の扉の鍵は、クリスが用意するという。どうするつもりなのかはわからないが、彼には何か考えがあるらしかった。

 学習棟に入ったあとは、ケンとトミーが実験室周辺の見張りにあたり、クリス、ジョー、それにマリーが実験室に忍び込む。役割分担を決めたのもクリスだ。

 機転の利くクリスや身軽なジョーが、危険の伴う潜入役に回るのはわかるのだが、なぜ自分までそちらに入っているのか、マリーには腑に落ちないところがあった。が、これにもクリスに考えがあるようだった。

 マリーにもう迷いや躊躇いはなかった。

 不安がないわけではないが、それよりも、学園の真の姿を暴いてやりたい、そのために奮闘している仲間たちの力になりたい、そういう思いのほうが強かった。

 それから、もう一つ、マリーを突き動かしている思いがあった。

 パパとママに会いたい。

 その思いである。

 先日の集会で明らかになったことがあった。

 生徒たちは皆、何か特別な資質がある。そのせいで、自分たちは無理やり学園に収容された。つまり、パパとママは望んでマリーを『ロイタース』に入れたわけではなかった。マリー本人も知らない特性のために、二人はやむなくマリーを学園に入れたのだ。マリーのことを追い出したかったわけでも、嫌いになったわけでもない。パパとママもマリーと別れたくなかったのだ。

 だとしたら、学園の悪行を暴き、学園を脱出したあかつきには、ふたりはマリーを温かく迎え入れてくれるはずだ。また、三人で暮らせるはずだ。

 その思いが、危険に立ち向かおうとするマリーに力と勇気を与えてくれるのだった。

 決行までの一週間、マリーは努めて普段通りに過ごした。緊張も気負いも胸の奥にしまいこみ、ほかの生徒たちと同じように規則に従い、大人しく目立たぬように日々を送った。仲間たちとの接触も可能な限り避けた。しかし、だからと言って、不自然なほどよそよそしく振る舞ったりもせず、当たり前に接するように心がけた。

 緊張と高揚とが交互に訪れるどこか落ち着かない日々を、マリーは平静の仮面をかぶってやり過ごしていた。


 決行日が間近に迫ったある日の昼休み、マリーはひとり中庭にいた。自由時間にレクリエーションルームへ行くことも止め、生徒や職員が集まる場所には極力近づかないようにしていた。キララとも距離を置いていた。彼女は妙に鋭いところがあり、何をしようとしているのかはわからなくても、何かをしようとしていることくらいは勘づく恐れがあるからだ。

 マリーは中庭の噴水近くのベンチに腰を下ろした。

 目の前には、学園を囲う高い塀が厳然と立ちはだかっている。

 もうすぐ、あの塀を越える。

 学園の秘密を暴き、塀の向こうの世界に帰る。

 と、そこまで考え、マリーはふと立ち止まる。

 あの塀の向こうには、何があっただろう?

 どんな世界が広がっていたのだったろう? 

 よく知っているはずなのに、思い出せない。壁の向こうの景色がひとつとして頭に浮かんでこない。ここに来てからそれほど長い時間が経ったわけでもないのに、どれだけ記憶をたぐっても、何も思い出せなかった。

 何が起こっているのだろう。

 なぜ、何も思い出せないのだろう……。

 ぼんやり塀の向こうを見ていると、ざっざっと乾いた音が聞こえてきた。

 マリーはそちらへ顔を向けた。

 中庭で、タイル敷きの床を掃いているペイジの姿が目に入った。

 灰色のドレスを着たペイジは大きな身体を揺らし、いくら集めても集めきれないであろう無数の落ち葉を延々と掃き続けている。

 マリーは立ち上がってペイジのほうへ歩み寄った。前から一度、彼女とゆっくり話をしてみたいと思っていた。

 マリーに気づいたペイジが、掃除の手を休めて振り返った。

 大きな目、団子みたいな鼻、厚ぼったい唇。外国人のペイジの顔つきは自分たちとはずいぶん違っているが、全体としては愛嬌があり可愛らしい。

「こんにちは、ペイジ」

 マリーは声をかけた。

「コンニンチハ」

 片言で簡単に返すと、ペイジはすぐに作業に戻った。

 クリスの話によると、彼女は、無理やり外国から連れてこられ、事情もわからないままこの学園で働かされているという。

 何も悪いことをしていないのに、異国のこんな場所で無理やり雑用をやらされている彼女の姿を見ていると、マリーは何やら申し訳ない気持ちになり、喉がつかえた。

「ねえ、ペイジ」

 もう一度声をかけた。

 ペイジが振り返り、黒目がちの瞳をマリーに向けた。

「あなたは寂しくないの? 家族も友人もいないこんな場所で、ひとりで生きて、辛くはないの?」

 とうとうマリーは訊ねた。ペイジが寂しくないはずない。辛くないはずがない。それはマリーにもわかっていたけれど、彼女はいつも平気な様子で、と言うより、どこか達観していて、それが奇妙で、マリーはずっと気になっていた。

 マリーの問いかけに、ペイジはきょとんとしている。

 ペイジには言葉が通じない。

 そのことを思い出す。

 マリーの質問が伝わっていないわけではなく、そもそも、彼女はマリーの言葉が理解できないのだ。

 そして、クリスがこう言っていたことも思い出す。

 マリーなら彼女と話すことができる。心の声で話しかけると、会話できる、と。

 マリーはペイジの瞳を覗き込む。その瞳からはいかなる感情も読み取れない。何も考えていないようにも見えるし、全てを見透かしているようにも思える。

 ペイジのことを知りたい。ペイジのことをわかりたい。この瞳の奥に隠されている思いを聞きたい。マリーはただそれだけを願って、もう一度問いかけた。

「あなたは一人で寂しくないの?」

 結果はおなじだった。ペイジは意味ありげに微笑むだけだった。

 やっぱり彼女と話すことはできないのか。

 そう諦めかけたとき、「寂しいわ」とペイジが一言返した。

 その言葉が、するりとマリーの頭の中に入ってきた。

 ペイジと話すことができた。

 心の声で通じることができたのだ。

 マリーは初めて彼女の本当の声を聞いた気がした。

 思っていた通り、彼女も寂しかったのだ。平気なはずなかったのだ。命じられた仕事を淡々とこなす機械のような冷たい人間ではなく、彼女も自分と同じように血の通った人間で、苦しみ、もがき、悲しんでいたのだ。

「やっぱりそうだったのね」

 マリーは沈んだ声で言った。ペイジの心に触れ、その思いを感じ取っとると、マリーにも暗い感情が伝わってしまったのだ。

「だけど、仕方がないのよ」

 ペイジが言葉を続けた。

 マリーはペイジを見上げた。

「仕方がないって、どうして?」

「これも神様の決めたことよ。辛いことも、悲しいことも全部神様が決めたこと。だから、あたしは神様の決めたことに従うだけ。神様はいつも見ている。神様の思し召しに従っていればいつかきっといいことがある。あたしはそう信じているわ」

 ペイジはそう言って、目に見えない何者かに祈るように目を瞑った。

 ペイジはごく自然に、神様、という言葉を口にする。きっと彼女の国では、神様が身近な存在で、神様と一緒に暮らしているのだろう。特別なときにだけ、思い出したように崇めるマリーたちとは違って、彼女のそばには常に神様がいるのだ。

 でも、マリーはペイジが信じている神様のことが好きにはなれなかった。苦しみを与える神様なんて神様ではない。そんな神様は悪魔と変わらないじゃないか。

 だが、ペイジはそんな性悪な神様のことを愛し、敬っている。きっと、そうすることで現実と折り合いをつけているのだ。過酷な現実も、どうしようもない理不尽も、神様が与えた試練なのだと受け入れ、この学園でのつらい日々を乗り越えているのだ。

 マリーはペイジの単純さが、純真さが、愛おしく、悲しかった。

 可哀想なペイジ。憐れなペイジ。馬鹿なペイジ。それにゆえに、美しいペイジ。

「そうね、信じていれば、きっといつか幸せになれるわ」

 ペイジの純真を嘲ったり、否定したりできるはずもなく、マリーはただ慰めるようにこう言った。

 すると、ペイジがにっこりと笑った。

「そうだわ」

 マリーは陰気な話は止めにして話題を変える。

「どうかしましたか」

「あなたに訊きたいことがあるの」

「何でしょう」

「あなたはどうして、わたしたちに協力してくれるの?」

 マリーはもうひとつ気になっていたことを訊ねた。自分たちに手を貸していると学園に知られでもしたら、彼女もただではすまないはずだ。そんな危険を冒してまで、なぜ、自分たちに協力してくれのか? マリーはそれが知りたかった。

「あなたたちの力になりたいから。それだけよ」

 ペイジは答えた。

「本当にそれだけなの?」

 ペイジの答えがあまりにシンプルだったから、マリーはもう一度確かめた。

「ええ、そうよ。あたしの国にも、あなたたちと同じくらいの……」

 そこまで言ったとき、頭上で鳥の羽ばたく音がした。

 ペイジは口をつぐんで、空を見上げた。

『自分の国にも自分たちとおなじくらいの年頃の子供がいる』

 きっとそう言おうとしたのだろうと思いながら、マリーもつられて空を見る。

 青い鳥のモーリスが、雲ひとつない空を優雅に舞っている。

 キララの部屋でご飯をもらった帰りか、あるいはこれから向かうところか、頭上でゆっくり旋回するその姿は、学園に囚われているふたりを励ましてくれているようにも見えた。

「モーリスよ」

 マリーは鳥を指差して言った。

「モーリス?」

「ええ、あの子の名前」

「モーリス……」とペイジが繰り返す。

「モーリスは幸せを運んでくれる鳥なのよ」

 マリーがそう教えると、ペイジは、「それは素敵な鳥ね」と言って顔をほころばせた。

 ふたりは揃って顔を上げてモーリスを眺める。

 モーリスは二、三度大きく旋回すると、澄んだ鳴き声をひとつ残して、お山のほうへ飛び去っていった。

 マリーは、モーリスの姿を目で追った。

 黒いお山の中腹に一本だけ真っ白な白樺の木が立っていた。モーリスはどうやらそこを目指しているようだった。もしかすると、あの白樺にモーリスのお家があるのかもしれない。

「あなたたちが何をやろうとしているかは知らないわ」

 ペイジが山の向こうを眺めたまま、マリーでない他の誰かに話しかけるように言った。

 その言葉から、クリスは彼女に自分たちの計画 ――学園の秘密を暴き、それを外の世界に知らせるという ――の詳細は話していないようだとマリーは察した。

「だけど、あたしはあなたたちのやろうとしていることが上手くいくことを祈っているわ」

 ペイジはマリーを見下ろし、温かな声で言った。

「ありがとう、ペイジ」

「だけど、気をつけなさい」

 ペイジが急に怖い顔になった。

「どうしたの、ペイジ?」

 マリーは戸惑いながら訊ねた。

「あなただから言うのですよ」

「ええ……」

「悪魔は意外なところに潜んでいるものよ」

 ペイジは脅かすように低い声で忠告した。

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