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中庭の少年

 クリスはマリーに重大な選択を残していった。

 クリスの計画に加わるか、無視するか。言い換えると、仲間とともに学園の秘密を暴き生徒たちを救うか、それとも、真実から目を背け、世界から隔絶されたこの学園で、偽りの平和のうちに残された時間を過ごすか。

 どちらも辛い選択だ。クリスたちと行動を共にし学園に立ち向かったとしても、勝てる見込みは薄い。敗北は死を意味する。一方、学園の脅威から目を逸らしたところで、いずれ実験体としてリンダのように殺されてしまう。

 なぜ、こんな苦しい選択を迫られなければならないのだろう。

 なぜ、こんな目に遭わなければならないのだろう。

 なぜ、自分はこの学園に入れられたのだろう。

 なぜ、なぜ……

 マリーの頭の中に、なぜ、が渦巻き、それはやがて大きな絶望に変わってマリーの胸を締め付ける。

 なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……

 どのくらいそうしていただろう。

 答えのない問いを繰り返していたマリーの耳に、どこからか軽快なメロディが聞こえてきた。

 我に返ったマリーは音色が聞こえてくるほうに目を向けた。

 ベンチから数十メートル離れた場所に一人の男の子がいた。その少年は、何やら楽しげに口笛を吹きながら、きょろきょろと足元を見回している。そうして、何かを見つけると拾い上げ、熱心に眺めては、あるときはポケットにしまい、またあるときは地面に放り投げる。

 マリーはついその少年に見とれてしまう。灰色に映るこの世界の中で、ひとり楽しげなその少年だけが輝いて見えたのだ。

 男の子はまた何か拾い上げた。ズボンに擦りつけると太陽にかざした。それが目当てのものだったのか、うっとりと見とれている。

 その幸せそうな様子に、マリーは思わず頬を緩めた。

 そこでマリー視線に気づいたのか、少年が振り向いた。

 ふたりの視線が交わり、距離を隔てたまま、しばし見つめ合う。

 マリーがにっこり笑うと、それを合図に、少年はこちらに向かってきた。

「よお」

 目の前まで来ると、少年は軽い調子で言って、片手を挙げた。

「こんにちは」とマリーも返す。

 知らない生徒だ。だが、学園では百人近い生徒が生活している。知らない生徒がいてもおかしくはない。

「見ない顔だな」

 少年が言った。不躾な物言いだが、彼の場合、不快感はなく、むしろ、親しみやすさを感じさせる。

「最近入ってきたばかりなの」

 マリーは答えた。

「そっか」

 少年はあっさり頷くと、再び足元に視線を落とした。

「さっきから何をしているの?」

 マリーは訊いた。

「ん?」

 少年は顔を上げると、「こいつさ」とポケットから何か小さな物を取り出し、マリーに見せた。

 少年の手のひらには小さな石がのっている。

 青い色をした不思議な石だ。

「石?」

「そうさ。俺は鉱石が好きなんだ。だから、こうして休憩時間に石を探してる」

「綺麗な石ね」

「だろう。こいつは青石って言うんだ。このあたりで取れる珍しい石なんだ」

 少年は簡単に説明すると、「そうだ」と何か思いついたように言った。

 マリーは首を傾け、どうしたの、と仕草で訊ねた。

「面白いものを見せてやる。こっちに来てみな」

 少年はそう言って、マリーに右手を差し出した。

 何か見せたいものがあるらしい。何を見せようとしているのかわかるはずもなかったけれど、どういうわけか、マリーは彼のちょっと強引な誘いに心を引かれた。

 少年の手を握った。

 少年が力を込め、マリーを立たせた。

 先ほどまであれほど身体が重かったのに、彼に手を引かれると、マリーはすんなり立ち上がることができた。

「こっちだ」

 少年はそう言って、中庭のほうに歩いていった。

「待って」とマリーもあとに続いた。

 少年は、中庭の中央にある噴水へとマリーを連れていった。

「この青石はさ、水に濡らすと、青がもっと深くなるんだ」

 少年は石に噴水の水をかけ、「ほら、見てみな」とマリーに見せた。

 確かに、青みがぐっと深くなっている。

「本当だ。さっきより青が濃くなっているわ」

「だろ。こいつはラピスラズリにも負けない美しさだ」

 男の子は手のひらに載っている青石を愛おしげに見つめている。

 マリーも少年の手のひらの石を見る。

 青く輝くその石を見つめているうちに、沈んでいた自分の心も、青く澄み渡っていくように感じた。

「俺はいつか世界中を回るんだ」

 いきなり、少年が言った。

 マリーはその横顔に目を向ける。

「そして、世界中の珍しい石を集める」

 少年は青石をポケットにしまい、空の向こうのはるか遠くを見つめた。

「そんなことできるかしら?」

 マリーは疑わしげに言った。

 だが、少年は「できるさ」と間髪入れずに言い切った。

「だけど、私たちはこの学園から出ることはできないわ」

「そんなことはない。こんなところ、すぐにでも出て行ってやるさ」

 少年は強気に言った。

 マリーは、この少年がまばゆく映った。この子は夢を諦めていない。希望を捨てていない。学園を出て、世界を巡ることができると、本気で信じている。そして、この少年なら本当にそれをやってのけるかもしれない、とそう思わせるだけの逞しさがあった。

「素敵な夢ね」

 マリーは言った。

「夢じゃない、そうするんだ」

 少年はむっとした声で言い返した。

「そうね。いつかきっと出られるわ」

 学園の恐ろしさは誰よりもわかっていたが、マリーは少年に合わせてそう言った。

 少年は「ああ、出られる」と迷いなく言い、顔をくしゃくしゃにして笑った。

 勇ましい少年だ。クリスとはまた違った力強さがある。クリスが、知恵と理性で困難をくぐり抜ける柳のようなしなやかな強さだとするならば、目の前にいる少年は、勇気と情熱で困難を切り開く檜のような真っ直ぐな強さだ。

「何があったか知らないけどさ」

 ふいに少年が語調を変えた。

 マリーは上目遣いで少年を見る。

「ま、元気を出せよ」

 少年は朗らかな声で言った。

 どうやら、マリーのことを励まそうとしてくれていたらしかった。

「そうね」

 マリーは力なく笑った。

「こんなクソみたいな場所だ。悲しいことや辛いことはいくらでも起きるだろうさ。でも、腐っちゃいけない。諦めちゃいけない」そこで少年は一呼吸置いた。「自分を失っちゃいけない」

 その言葉が、マリーの胸に深く響いた。

 クリスと初めて会ったとき、彼もまた似たようなことを言っていた。

 自分を保たなければならない。

 確かに彼はそう言った。

 けれど、あのときクリスは警告のために言った。少年はそれとは違い、マリーのことを元気づけるために言っている。

 クリスの言葉はマリーをぞっとさせたが、少年の言葉はマリーの冷えた心に熱をともしてくれる。

 そうだ。

 こんな場所にいるからこそ、自分を見失ってはいけない。

 強く、自分を保たなければならないのだ。

「もう、大丈夫そうだな」

 黙り込むマリーに少年が言った。

 マリーは少年に笑みを返した。

「じゃあ、俺はもう行くよ」

「うん」

「またな」

 歯切れよくそう言うと、少年は颯爽と歩き去った。

 マリーはその後ろ姿を見つめる。

 この学園を出る。

 それを諦めていない男の子がいる。

 学園に立ち向かおうとしている男の子がいる。

 その存在がマリーを勇気づけてくれる。

 いつまでも落ち込んでいる場合じゃないと、マリーを叱咤する。

 悩んだところで何も解決しないのだ。

 落ち込んだところで、誰も助けてくれないのだ。

 何をすべきか、どうすべきか、自分で考え、自分で行動しなければならないのだ。

 あの少年のように……。

 そこで、マリーはまだ名前も訊いていないことに気がついた。

「ねえ、あなた、お名前は」

 校舎のほうに歩いて行く少年の背中に向かって呼びかけた。

 が、きちんと届かなかったようで、少年は振り向いて小さく手を振り返し、再び歩き出した。

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