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日常へ

 翌日から、マリーは再び学園生活に戻った。

 他の生徒たちは、数日行方不明になっていたマリーに特別な関心を示したりはしない。まるで何もなかったかのように、以前とおなじ態度で接してくる。あれこれ詮索されても困るのだけれど、ここまで無関心だと何か学園側の見えない力が働いているのではないかと、勘ぐってしまう。

 さすがに、トミーやケンは、廊下ですれ違ったときに心配そうな視線を送ってきた。が、マリーは気づいていないふりをした。彼らのことを無視しているわけではなく、単純に、どのように接するべきなのか、態度を決めかねていたのだ。

 猫目の職員は、あの日を境に姿を消した。

 再び、起伏のない毎日が始まった。朝、七時に起き、八時から朝食をとり、午後と午前の授業を受けて、夜十時に就寝する。あんなこと、つまり、リンダの部屋に侵入するという重大な規則違反をし、酷い罰を受けたあとだというのに、マリーの生活に大きな変化は起こらなかった。それがかえって気味が悪く、妙な居心地の悪さを覚えた。

 唯一変わったことといえば、十組からキララと同じ三組に異動させられたことくらいだ。

 もしかすると、これが規則違反を犯した者へのペナルティなのかもしれないが、この程度のペナルティは何ともなかった。何のための勉強かもわからないのだから、何組だろうとどうでもいい。むしろ、キララと同じクラスになれて嬉しいくらいだった。

 マリーは三組の教室で、午後の授業を受けていた。

 窓からやわらかな日差しが差し込む穏やかな午後だった。あまりに穏やかで、何か不吉な感じさえした。

 三組の先生は、男の先生だった。口ひげをたくわえたその先生は、十組の先生と違っておっとりしていたが、生徒に興味がなさそうなところはやはり同じだった。

「お兄さんが赤い箱にボールを入れて部屋を出て行きました。そのあと、弟さんが部屋に入ってきて、赤い箱に入っているボールを青い箱に入れ替え、部屋を出て行きました。ボールを取りに戻ってきたお兄さんは、どちらの箱を開けるでしょうか?」

 先生が問題を出す。

 十組の授業に比べると、ずいぶん簡単な問題だ。

 考えるまでもない。

 すぐに答えがわかったマリーは、余裕で構えていた。

「では、マリーさん、答えてください」

 先生がそんなマリーを指名した。

「はい」と答えマリーはゆっくり立ち上がった。

 あまりに簡単だから、答えるのも億劫だった。

「答えは……」

 そこまで言って、口が固まった。

 答えが出てこない。

 頭が働かない。

 なぜだ。なぜ答えが出てこない。

 どうして、こんな簡単な問題の答えが出てこないのだ。

 マリーは必死で考える。

 お兄さんは赤い箱にボールを入れて部屋を出た。そのあと、弟さんがボールを青い箱に移したから、ボールは青い箱に入っている。だったら、ボールを取りに戻ったお兄さんは青い箱を開けるのではないか。いや、違う。お兄さんはボールが青い箱に移されていることを知らない。だけど、実際にボールが入っているのは青い箱だ。お兄さんはボールを取りに戻ってきた。やっぱり、お兄さんは青い箱を開けるはずだ。でも、それでいいのか。何か変だ。だが、何が変なのかわからない。考えがまとまらない。頭の中に靄がかかったようで、答えが見つからない。

「マリーさんには難しかったかな。それじゃ、他の人に答えてもらいましょう」

 押し黙るマリーを見かねたのか、先生がそう告げた。

 違うの、先生。わたしにはわかっているの。わかっているのに、答えが出てこないの。

 マリーはそう目で訴えた。だが、先生に届くはずもなく、先生はもう一度部屋の中を見回し、「では、キララさん、答えてください」とキララを指名した。

 キララは、「はい」と元気よく返事をして立ち上がり、「赤です」と即答した。

「はい、正解です。よくわかりましたね、キララさん」

 先生が褒めると、教室内にぱらぱらと拍手が起こった。

 マリーは呆然としていた。

 知らないうちに、背中に冷たい汗をかいていた。

 授業が終わると、マリーは「レクリエーションルームで遊びましょう」というキララの誘いを断って、ひとりで中庭に向かった。

 中庭には誰もいなかった。

 静かな中庭の隅にあるベンチに腰を下ろすと、マリーはひとり考え込んだ。

 どうして、あんな簡単な問題がわからなかったのだろう。

 拷問の後遺症だろうか? あるいは、あのとき、頭に何かされたのだろうか?

 わからない。

 何もわからない。

 何もわからないことが怖い。

 このまま自分が自分でなくなってしまいそうで怖い。

 風が吹いた。いつの間にか暑い夏は去り、寒い冬が始まろうとしている。ついこのあいだまで、うるさいくらい蝉が鳴いていた。

 あの蝉の声はどこに消えたのだ? 

 あの照りつけるような日差しはどこに行ってしまったのだ? 

 あの騒がしい夏はどこに行ってしまったのだ?

 今、季節はいつだ?

「マリー」

 考えごとに沈み込んでいると、声が聞こえてきた。

 マリーは考えごとを中断した。

 声の主は確かめなくてもわかる。

 クリスがマリーの隣に腰掛けた。

 学園に囚われ、解放されてから、クリスと言葉を交わすのはこのときが初めてだった。

 マリーは何を話せばよいのかわからなかった。

 まずは軽率な行動を詫びるべきなのだろうが、そうする気になれなかった。恐ろしい拷問の記憶はいまだ消えず、自分の非を素直に認められるほどの精神的な余裕はなかったのだ。

 それに、自分はまだ仲間の一員として見なされているかどうかもわからない。ひとり先走り、仲間全員を危険に晒すようなことをしてしまった。追放されても仕方がない。

 いや、それ以前に、自分自身に、仲間の一員でありたいという気持ちが残っているのかどうかさえ、わからなかった。

「災難だったね、マリー」

 クリスが労るように言った。マリーの独断専行を責める気はなさそうだ。が、それに返す言葉をマリーはまだ見つけられない。

「よく生きていてくれた。もう二度と会えないかと思った」

 クリスが涙声で言った。

 どうやらクリスは心の底からマリーのこと心配しているようだった。

 マリーはクリスの横顔を見る。酷く憔悴しているように映った。

「君の姿が見えなくなってから、僕は、ずっと後悔していたんだ。僕が仲間に引き込んだばかりに、危うく君を死なせてしまうところだった。君が酷い目に遭ったのは、僕の責任だ」

 クリスは背中を丸め、声を詰まらせながら懺悔の言葉を口にした。

「いいえ、あなたのせいではないわ」

 マリーはようやく声を出した。

「だけど……」

 クリスは顔を上げた。

「悪いのはわたしよ。わたしがひとりで突っ走って、リンダの部屋に忍び込んだりしたのがいけなかった。あなたの忠告を無視して無茶した、わたしが悪いの。それに、わたしにひどいことしたのは、あなたじゃないわ。この学園よ」

 マリーは猫目の職員に殺されかけた。謎の部屋で死んだように眠っていたリンダを目にしたときも、クリスたちから生徒が行方不明になるという話を聞いたときも、心のどこかで他人事のように受け止めていた。自分は大丈夫だと、何の根拠もなく楽観的に考えていた。心のどこかで学園のことを舐めていた。その無意識の慢心が今回の事態を招いたのだ。

「それだけじゃないわ。あなたたちの仲間になると決めたのは、わたし自身よ。あなたは何も悪くないわ」 

 マリーはつけ加えた。

「そう言ってもらえると、僕も少しだけ気が楽になる」

 クリスは足元に目線を落としたまま言った。

 短い沈黙があった。

「マリー」

 数秒ほど間を開け、クリスが呼びかけた。

 マリーは返事せず、黒目だけわずかに動かした。

「君はまだこの学園と戦う気があるかい?」

 クリスがどこか申し訳なさそうに訊ねた。

 マリーは口をつぐんだ。

 この学園がまともでないことは身をもって知った。身をもって知ったからこそ、学園の悪事を暴き、この学園を終わらせたいという気持ちもある。そうすべきだという義務感もある。けれど、そのために立ち上がることが、どうしてもできない。猫目に受けた暴行の記憶。あのとき味わった恐怖の記憶が、再び立ち上がろうとするマリーの心に冷や水を浴びせ、気持ちを挫いてしまうのだ。

「わからないわ」

 マリーは答えた。嘘偽りのない本心だった。

「そうか……」

 クリスがまた少し間を開けて、つぶやいた。

 枯れ葉が乾いた音をたてて風に舞い上がる。宙をさまようその様子は、風に弄ばれる蛾のようにも見えた。

「ジョーが帰ってきた」

 唐突にクリスが言った。

「ジョー?」

 マリーは訊き返す。

「前に話したことがあっただろ。僕たちにはもうひとり仲間がいたって。その彼が帰ってきた」

「帰ってきたって、彼はどこにいたの?」

「ずっと学園に捕らえられていたらしい」

 クリスが言った。

 学園に捕らえられていた、もうひとりの仲間。その彼もマリーと同じように冷たい部屋に閉じ込められ、酷い拷問を受けていたのだろうか。そして、何らかの理由や事情があって、奇跡的に解放されたのだろうか。わからない。わかるはずもないのだけれど、もしかすると自分と同じような目に遭っていたかもしれないクリスの仲間にわずかな同情を覚えつつ、

「それで?」

 と、マリーは先を訊ねた。

「計画を次の段階に進めようと思う」

 クリスが答えた。

 戻るかどうかは決めかねていたが、「次の段階」という言葉が気になった。

「次の段階ってどういうこと?」

 つい、マリーは訊ねてしまう。

「実験室に忍び込む」

 クリスが短く答えた。

「まさか」とマリーは意図せず大きな声が出た。

 実験室に忍び込む。それがどれほど危険なことか、わからないマリーではない。あの実験室こそ、学園の心臓部であり、最も警戒している場所だ。そんなところに侵入し、万が一にも失敗したら、学園から何をされるか想像もつかない。今度こそ、本当に殺されてしまうかもしれない。

「そのまさか、さ。僕はこのままではいけないと判断したんだ。今のままだと、いつまでたっても前に進めない。何もわからないままだ。僕は、以前から学園の本丸に切り込まなければならないと考えていた。そこにジョーという心強い仲間が帰ってきた。それで僕は決めたんだ。実験室に潜入する。今度は僕ひとりじゃない。みんなで行くんだ。みんなで潜入して、みんなで調べ上げる。調査の目が多ければ多いほど、何かを発見する可能性も上がるからね」

 クリスがマリーをまっすぐに見つめた。

「そして、マリー。君の目も借りたい」

 クリスは、まるでプロポーズでもするかのような甘い口ぶりで言った。

 しかし、マリーにはクリスの言葉が重荷でしかなかった。

 クリスの判断は恐らく正しい。危険を冒さなければ、真実にはたどり着けない。だが、それを実行して失敗したのが自分なのだ。学園の怖さを身にしみてわかっている。だからこそ、そう簡単にはクリスの誘いに乗ることはできなかった。

 マリーは目を伏せた。

「無理強いはしない。明日の夕方、例の小屋でみんなに計画を伝える。もし君がその気になったら、明日、小屋に来てくれ」

 沈黙するマリーに、クリスが言った。

 マリーは無言で顔を上げた。

 クリスが立ち上がった。

「僕は待っているよ」

 そう言って、彼は半分だけ顔を向け寂しそうに笑った。

「クリス……」

 マリーは囁いた。

 クリスはそのままマリーに背を向け、歩き出した。枯れ葉の舞う中庭を大股で歩むその後ろ姿には、どんな困難にも立ち向かう力強さがあった。

 取り残されたマリーのほうは、ベンチから立ち上がることもできなかった。

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