帰還
暗闇の中で、隣にいるお母さんの手を握る。お母さんの手は冷たい。
洞窟のような場所にいるらしい。真っ暗で、空気は湿っている。
周囲にたくさんの人が蠢いているのが、気配でわかる。
外では轟音は続いている。
轟音が起こるたびに大地が揺れ、天井から石や砂が落ちてくる。
お母さんにしがみつく。
「大丈夫、大丈夫だよ」
お母さんはそう言うが、その声はマリーではなく、お母さん自身に向かって言い聞かせているようだった。
マリーは目を覚ました。
ずいぶん長い間、眠っていたようだ。どのくらい眠っていたのだろう。頭がぼんやりし、時間の感覚も曖昧だ。
マリーはもぞもぞと身を起こした。
すぐそばに、人の気配があった。
目を向けると、キララがベッドに突っ伏したまま、静かな寝息を立てていた。マリーが眠っているあいだ、ずっとこうしてそばにいてくれたらしい。
穏やかに眠るキララの前髪にそっと触れ、それから、顔を上げてあたりを見回した。
自分の部屋だった。
いつの間にか自室に戻され、そのまま眠っていたらしい。
記憶が混乱していて、なぜ自分がこの部屋で寝ているのか、すぐには理解できない。
物音に気づいたのか、キララの瞼がゆっくり開いた。
「マリー!」
目を覚ましたキララが、大げさに驚いてみせた。
「キララ」とマリーは呼び返した。
「やっと起きたのね、マリー」
キララがマリーに飛びついてきた。
マリーはキララの背中をさすりながら、「ずっとそばにいてくれたの、キララ?」と訊ねた。
「そうよ。いつまで経っても目を覚まさないから、このまま起きてこないんじゃないかって心配したんだから」
キララはマリーから離れると、そっと涙を拭った。
その姿を見て、マリーも目頭が熱くなった。
「ありがとう、キララ」
マリーは震える声で言った。
「いいのよ、マリー。あなたが無事でほんとうによかったわ」
キララは、いつもの小鳥のような愛らしい笑顔を浮かべて言った。
「どのくらい経ったのかしら……?」
マリーは虚ろな声で訊ねた。
だが、それがいつから起算したことなのか自分でもわからない。リンダの部屋に忍び込んだときからか。猫目の職員に捕らえられたときからか。暗くて寒い部屋にとじ込められたときからか。猫目の職員に拷問されたときからか……。
そこまで考えた瞬間、記憶が鮮明に蘇った。
「ひっ」
マリーは悲鳴を漏らし、布団に顔をうずめた。
「どうしちゃったの、マリー」
キララがうずくまるマリーに手を添え、心配そうに訊いた。
「わたしね、とても怖い目にあったの」
「怖い目?」
「ええ。とても、とても怖い目……」
マリーは声を震わせ、言葉を絞り出した。
何度も頬を打つ、猫目の職員。
優雅に演説する、猫目の職員。
電流を押し当てる、猫目の職員。
もう少しで殺されるところだった。
もう少しで死ぬところだった。
本当に怖かった。
身体の震えが止まらない。
「思い出すのも嫌」
マリーは強く目を閉じ、吐き出すように言った。
「もう大丈夫よ、マリー、安心なさい」
キララがやけに大人びた声でマリーを慰める。
マリーは顔を上げてキララを見る。
キララはママのような優しい笑みを浮かべていた。
それを目にすると、不思議な安心感が胸の内に広がって行く。
「本当?」
マリーは、すがるような声で訊ねた。
「ええ、本当よ、マリー。もう怖がらなくても大丈夫」
キララがマリーの頭を撫でた。
キララにそうされると、マリーはずっと昔、まだ幼かった頃、お昼寝の時間にママにおなじように頭を撫でられたことを思い出した。
少しずつ落ち着きを取り戻してゆく。
それでも、身体の震えはまだおさまらない。
そんなマリーを見て、キララが「そうだわ」と声のトーンを上げた。
マリーは涙のにじむ目でキララを見る。
「マリーにいいものをあげる」
「いいもの?」
「ええ、とても素敵なものよ」
そう言うとキララはポケットから何かを取り出した。
キララの人差し指と親指のあいだには、鳥の羽がはさまっていた。
「これは?」
マリーは訊ねた。
「モーリスの羽よ」
「モーリスの……」
「そうよ」と答えて、キララはモーリスの青い羽をマリーのほうに差し出した。
「これはお守りなの。マリーが怖い目に遭ったりしないように、悲しい思いをしないように、守ってくれるのよ」
キララが教えた。
マリーはその羽を受け取り、日にかざす。
陽の光を受けた羽は、キラキラと青く輝き、向こう側がうっすらと透けて見える。青く美しいその羽を見ていると、キララの言うとおり本当に自分を守ってくれる神秘的な力があるように思えてくる。
「綺麗」
マリーは呟いた。
「これを持っていれば、もう二度と怖い思いをしなくてすむはずよ。だから、もう何も怖がることはないわ、マリー」
「本当に?」
「ええ、本当よ」
キララが力強く頷いた。
「ありがとう、キララ」
マリーはお礼を言って、青い羽でさっと頬を撫でる。優しい肌触りが心地いい。
いつの間にか、震えは止まっていた。
酷い目に遭った。
本当に殺されると思った。
それでも、まだ生きている。
ひとり突っ走った末に学園に囚われ、猫目からむごい仕打ちを受けた。だが、リンダのように実験に使われることもなく、殺されることもなく、こうして解放された。それが幸運だったのか、不運だったのか、そこに意味があるのか、ないのか、それはまだわからない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。自分は、まだこうして生きている。そのことがマリーには奇跡のように思えた。
柔らかい羽の感触を肌に受けながら、マリーは生を噛みしめていた。
そんなマリーの姿を、キララは目を細くして見守っていた。




