猫目
猫目の職員がマリーを見下ろしている。
リンダの部屋を調べているところを見つかり、マリーは捕らえられてしまった。
その後、連れて来られたのは、地下室のような場所だった。
その部屋で、マリーは両手縛られたまま、冷たい椅子に座らされていた。
コンクリートが剥き出しの寒々しい部屋だった。
猫目が何をするつもりなのかわからない。リンダと同じ目に遭わされるのだろうか。クリスが言っていた何かの実験に使われるのだろうか。リンダのように全身をパイプだらけにされるのだろうか。それとも別の、もっと残虐な罰が待っているのだろうか。
わからない。
わからないが、不思議と恐怖は感じない。いや、違う。信じがたい展開に理解がおいつかず、恐怖が麻痺しているのだ。
「あの部屋で何をしていたんだ?」
猫目の職員がマリーに顔を近づけ問い詰める。彼の声を間近で聞くのは初めてだった。やけに甲高い、耳障りな声だった。
マリーは無言で猫目の職員を見返した。答える気はないというマリーなりの意思表示だ。
「何をしていたのだ、と訊いている!」
怒鳴り声が耳に入ると同時に、パシッと鋭い音がした。
目の前に黄色い幾何学模様が舞った。
猫目が頬を打ったらしい。あまりの衝撃に、そうとわかるまで少し間があった。容赦ない大人の張り手だった。やけどしたのかと思うほど頬が熱くなると、ぼやけていた恐怖が徐々に形をなしていく。
「お前は、ここがどういう場所か知っているな。お前たちは逃げられない。助けを求めることもできない。お前たちはこの場所で俺たちが決めたルールに従って生きるしかないんだ。なのに、お前はそのルールを破った。さあ、答えろ。ルールを破って、お前はあの部屋で何をしていたんだ」
マリーは顔を持ちあげた。それから、はっきり答えた。
「お部屋を間違えただけよ」
マリーが答えるやいなや、今度は反対側の頬を張られた。
「嘘をつくな。俺はお前たちが嘘をついているかどうかなんてすぐにわかるんだ。さあ、答えろ」
「本当にお部屋を間違えただけよ」
パシッと肉を打つ音が、また狭い部屋に響く。
「お前の部屋と、あの部屋がどれだけ離れていると思うんだ。何をどうすれば間違えるんだ?」
「リンダの隣の部屋にお友だちがいるのよ。その子の部屋と間違えたのよ」
「そいつの名は?」
マリーは黙る。
「そいつの名を言ってみろ」
また男がマリーの頬を打つ。
「そいつの名前を言ってみろって言ってんだ!」
猫目が怒号を上げた。
その獣のような声に、眠っていた恐怖が完全に目を覚ました。
マリーは奥歯をカチカチと打ち鳴らした。
「おまえたちは何を企んでいるんだ!」
猫目がもう一度頬を打った。
涙があふれ、目の前の光景が水彩画のように滲み出した。
『彼女は足手まといにならないか』
トミーの言葉が頭の中で再生される。トミーの言う通りだった。自分は役に立たないどころか、手柄を焦って職員に捕らわれ、尋問され、仲間たちまで危機に晒している。足手まとい以外の何者でもない。
なぜひとりで突っ走ってしまったのだろう。
どうしてひとこと仲間に相談しなかったのだろう。
自分の浅はかさを大いに反省したが、もはや手遅れだった。
いま、自分にできることは、これ以上、仲間に迷惑をかけないこと、つまり、沈黙を貫くことだけだ。
それだけは冷静に判断できたマリーは歯を食いしばって、だんまりを決め込んだんだ。
猫目の職員は鼻から息を吐き出し、背筋をまっすぐにした。
「こんな話を知っているか」
ふいに声音を変えた。
マリーは耳だけそちらに向けた。
「生命の歩む道は、その誕生と同時に決められているんだそうだ。神様が決めたのか、自然がそう定めたのかわからない。だが、原始生命体が誕生した瞬間、己の進むべき道がDNAに描き込まれた。そのDNAは脈々と受け継がれ、俺たちはその生命体が選択した道をなぞっているにすぎない。たとえ行き着く先が滅亡だとしてもな。そんな仮説を提唱している学者もいる」
猫目の意味の分からない話をマリーはぼんやりと聞いている。
猫目は話を続けた。
「俺はこの考えが好きだ。俺たちの進む道は最初から決まっている。素晴らしい話じゃないか。人を救おうとも、人を殺そうとも、何をしようとも、それはみんな最初から決まっていることなんだ。俺たちはただ、遙か昔に決められた道を歩いているだけなんだ。
つまり、俺たちは自由なんだ。最初から全部決まっているから、俺たちは自由なんだ。俺はこの考えに従って生きている。俺は俺の好きなように生きる。俺はやりたいようにやる。なぜなら、それは決まっているからだ。
だから、俺はお前たちの存在を許さない。お前たちの存在を認めない。たとえ、お前たちが『特別な存在』であろうともな」
猫目は鼻息が頬にかかるほど顔を近づけてきた。光のない瞳の奥に狂気が揺れている。
怖い。
このとき、マリーは身体が凍りつくような真の恐怖を感じた。
足元が生暖かくなった。失禁したのだと気づく余裕もマリーにはなかった。
「助けて」
掠れた声で言った。
直後、猫目がまたマリーの頬を張った。
猫目はそのまま背を向け、壁際のキャビネットのほうに移動し、何か取り出して戻ってきた。手には見たこともない小型の器具が握られている。猫目が指で操作すると、バチバチと音を立て、先端に火花が迸った。
「俺はお前たちの存在を許さない。おまえたちの存在を認めない」
呪文のように繰り返し、猫目が器具の先端をマリーに押し当てた。
その直後、全身に電気が走りマリーは「きゃああ」と悲鳴を上げた。
猫目が手にしているのは、電流を流す拷問器具らしかった。
ガラスの破片が全身の血管を駆け巡るような痛みに、マリーは気を失いそうになった。
それでも、猫目は手を休めなかった。
何度も何度も器具を押し当てられ、そのたびにマリーは悲鳴を上げ、身体をのけぞらせた。
次第に痛みを感じなくなり、意識が朦朧としてきた。
これが死ぬということだろうか。
薄れゆく意識の中でマリーは思った。
こんなところで、名前も知らない不気味な男に殺されようとしている。
そんな馬鹿げた終幕に、マリーは悲しみを通り超え、何やら情けない気持ちになった。
そのとき、「何をやっているの!」と甲走った声が響いた。
マリーは薄く目を開けた。
目の前の景色は霞んではっきりしない。
人が近づいてくる。
一人は女性。高いハイヒールを履いている。おそらく、園長先生だ。その背後にもう一人いる。背格好からして生徒のようだったが、誰だかはわからない。
「こいつは、まだだって言ったでしょ」
園長先生の声だった。
「しかし、こいつは規則を破った」
猫目が食い下がった。
「こっちにはこっちの都合があるの。わたしがいいと言うまではダメだって、何度も言っているでしょう」
「でも……」
「でも、じゃありません。すぐに新しいのを用意してあげるから、もう少し辛抱しなさい」
「それは、いつですか」
「もうすぐよ」
「早くしてくださいよ、こっちはもう限界なんだ」
「わかったから、今日はもう終わりになさい」
ふたりの会話が遠くから聞こえてくる。
どうやら助かったらしい。いや、助かったというより、ひとまず生きながらえたといったほうがしっくりくる。
どこからか軽快なメロディが聞こえてくる。
口笛だ。
この場に不釣り合いなその楽しげな音色が何だか滑稽で、馬鹿らしいなと思ったところでマリーの意識は途切れた。




