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ペイジ

 マリーたちは薄暗い廊下を歩いている。

 園長先生と長身の男性が前を歩き、マリーはその後ろを歩く。ふたりは幼いマリーへ気遣いもなくどんどん先を行くので、マリーは遅れないようにするのに必死だった。

 マリーの荷物は、後ろからついてくる学園の職員だと思われる女性が運んでくれている。外国の女性らしく、大柄で肌は褐色だった。両手いっぱいに荷物を抱えているのに、歩く速度は前のふたりと変わらないから、マリーは後ろからもせっつかれているようでさらに焦った。

 パパとママはマリーを園長先生に託すと、すぐに帰ってしまった。

「ママ、きっとよ、きっと会いに来てね」

 自動車に乗り込むママに向かって、マリーは最後のお願いをした。

「ええ、会いにくるわ」

 ママは答えたが、どこかおざなりだった。

「きっとよ」

 それで念押ししたのだけれど、ママは曖昧に笑っただけだった。パパは何も答えてくれなかった。

 ふたりが乗り込むと、自動車はすぐに動き出した。もの凄いスピードで門をくぐり、あっという間に見えなくなってしまった。まるで、マリーから逃げるようだった。

「約束よ……」

 走り去る車を見つめながらマリーはつぶやいた。

「みなさんからは何とお呼ばれしていたの?」

 ぼんやりと考えごとをしていたマリーの隣に、いつの間にか園長先生が立っていて、そう訊ねた。

 ふいの質問だったから、マリーは咄嗟に答えられず、口をもごもごさせる。

「何とお呼ばれしていたのですか?」

 園長先生が質問を繰り返す。

 マリーはマリーよ、ずっとそう呼ばれているわ、そう答えようとするのだけれど、喉の奥が糊でくっつけられたように塞がってしまい、声が出ない。

「ここではね、みんなニックネームで呼び合うの。そうしたほうが早く仲良くなれるでしょう」

 黙り込むマリーに向かって園長先生が説明した。

 その説明を聞き、質問の意図を理解したマリーは、「わたしはマリー。みんなからはずっとそう呼ばれているわ」とようやく答えることができた。

「そう。それじゃ、わたしもマリーさんと呼ばせていただくわ」

 園長先生が言った。大人から「さん」を付けて呼ばれることは初めてのことだったので、マリーはなんだかくすぐったくなった。でも、嫌な気はしない。

 園長先生の顔を見る。

 作り物のような笑顔は変わらないが、それは今日入園したマリーの緊張をほぐそうとしているだけなのかもしれない。積極的に話しかけてくるのも、怯えるマリーを安心させようとしているのかもしれない。そう考えると、自身の素っ気ない態度が失礼なように思えてきた。

「はい、そう呼んでください。そう呼んでいただけると、わたしも嬉しい」

 マリーが園長先生に迎合するようにそう答えると、園長先生は、「それではマリーさん、今日からよろしくね」と親しげに言って手を差し出した。

 もしかすると、ここはマリーが思っているような恐ろしい場所ではないのかもしれない。園長先生も怖い人ではないのかもしれない。園長先生の後ろにいる猫目の男性も親切な人なのかもしれない。

 マリーがそう思い直し園長先生の手を取ろうとした、その直後、背後で大きな音がした。

 マリーと園長先生は同時に後ろを振り返った。

 荷物を運んでくれていた外国人女性が、マリーのトランクの一つを床に落としてしまったらしかった。

「モウシワケゴザイマセン」

 女性は両手の荷物をいったん床に置き、たどたどしい言葉で詫びて深々と頭を下げた。

 マリーとしては、いっぺんに沢山の荷物を運ばせたのが悪いのだし、見たところトランクも傷んでいないようだから、何とも思わない。むしろ、恐縮し切りの外国人女性を気の毒に思ったりしたのだが、園長先生は彼女の失態を見止めるや、態度を豹変させ「何をしているの!」と金切り声を上げたものだから、吃驚した。

 萎縮するマリーを気にかける様子もなく、園長先生はつかつかと女性職員に歩み寄ると、一切の躊躇いを見せず、女性職員の頬を張った。パシッと鋭い音が廊下に響き、マリーは思わず両手で顔を覆った。

「あなたは何度言えばわかるんですか?」

「タイヘン、モウシワケアリマセン」

「全くあなたは何をやらせてもヘマばっかりして、ほんとに役に立たない人ね」

「オユルシクダサイ、園長先生」

「あなたの代わりなんていくらでもいるんですよ。今度ヘマをしたらこの園から叩き出しますからね」

 園長先生は罵倒を続けた。

 猫目の男性は、園長先生を宥めるでも、仲裁するでもなく、ただその遣り取りを悠然と眺めている。

「ハイ、ワカリマシタ。肝ニメイジテオキマス」

 どこで憶えたのか、そんな難しい言葉で謝ると、外国人女性は九〇度になるくらいまで腰を折った。

 それで気が済んだようで、園長先生はふんっと鼻を鳴らして、マリーのもとに戻ってきた。

「お騒がせしてごめんなさないね」

 何事もなかったかのように園長先生が笑顔でそう言うのだが、その平然とした様子が、かえってマリーの恐怖を煽った。

 園長先生はやっぱり怖い人だった。

 ミスをした職員を容赦なく張り手するような冷酷な人だった。

 最初の印象が正しかったのだ。

 それを悟ったマリーは、「い、いえ……」とかすれた声で応じることしかできなかった。

「では、お部屋に行きましょう」

 園長先生はそう言うと、怯えるマリーに目も向けず、再びカツカツとハイヒールを鳴らして、歩きだした。

 長身の男性職員も無言のままついてゆく。

 ふたりを追う前に、マリーは恐る恐る背後にいる外国人女性のほうを見た。

 また背筋が凍った。

 外国人女性が恨めしい目つきで前方のふたりを睨み付けている。その瞳はメラメラと赤く燃え上がっているようだった。

 その恐ろしい形相を目にすると、マリーは混乱した。園長先生にぶたれた彼女を同情すべきなのか、警戒すべきなのか、わからなくなった。

「何をしているの、マリーさん。早くいらっしゃい」

 気持ちの落とし所が見つからず佇むマリーに、園長先生の声が届いた。

 外国人女性は園長先生が振り返るや、さっと視線をはずして、床に落ちたマリーの鞄を拾い始めた。

 気持ちの整理もつかなかったが、園長先生の容赦ない仕置きを見た後では、園長先生の言葉に従う他なかった。マリーは女性職員のことはひとまず置いておいて、前のふたりを小走りで追った。

 緩やかな階段を上り、二階に着くと、長い廊下に幾つものドアが並んでいた。

 園長先生はその中の一つの部屋にマリーを案内した。

「ここがあなたのお部屋よ」

 園長先生が言った。

 隣にいた猫目の職員が一歩前に出て、ドアを開けた。

「さあお入りなさい」と園長先生に促され、マリーは室内に足を踏み入れた。

 ベッドと学習用の机と、洋服や小物をしまっておくためのクローゼット、それに本棚があるだけの質素な部屋だった。ぬいぐるみもない。お花も飾っていない。素敵なカーペットもない、可愛らしいカーテンもない。マリーがこれまで暮らしていたお部屋とは比べものにならない殺風景な部屋だった。

「今日はお疲れでしょうから、ゆっくりとお休みなさい」園長先生も部屋に入ってきて言った。「みんなには明日の朝、紹介します。今日のお夕飯は、特別に部屋に運ばせましょう。食べ終わったら、食器は廊下に出しておいてください。消灯は十時です。それまでは自由に過ごしてかまいません。だけど、無闇に出歩かないでくださいね。みんなまだあなたのことは知らないのですから。それから、明日の朝食は八時からです。一階の食堂に集まってみんなで食べます。あなたも、八時になったら食堂にいらしてね。遅刻は厳禁です」

 園長先生が一方的に話すものだから、マリーは、全部を憶えきることはできなかった。でも、訊き返したりしたら、叱られそうなので、きっちり頭に入っていないまま、「はい」と答えた。

「ここでは何よりも規則が重要なのよ。規則を破るようなことはくれぐれもなさらないでくださいね」 

 最後に園長先生はぐいと顔を寄せてそう忠告した。

 マリーは思わずのけぞった。先生のつけている化粧品のにおいが鼻についた。

「お返事は?」

 園長先生が詰め寄り、マリーは顔を引きつらせて「はい、わかりました」と答えた。

「よろしい」

 園長先生は鷹揚にそう答えると、ねっとりと肌にまとわりつくような笑みを浮かべ、すうと背筋を伸ばした。

「それじゃ、また明日ね、マリーさん」

 園長先生はそう言い残し、部屋から出て行った。猫目の職員は横目でちらりとマリーを一瞥して去って行った。

 ふたりの足音が遠ざかると、一気に身体の力が抜けた。マリーはそのまま倒れ込むように、すとんとベッドに腰を落とした。

 残った大柄な外国人女性が、マリーの荷物を部屋に運び込んでくれる。

 女性職員とふたりきりになると、マリーは再び彼女に対する同情の気持ちが芽生えてきた。虐げられる者同士の連帯意識とでもいうべき奇妙な親近感を覚えたのだ。

「あなたお名前はなんていうの?」

 マリーは思い切って訊ねてみた。

 けれど、外国人女性は振り返りもせずに、淡々と作業を続ける。

 マリーは、はあ、と小さくため息をついた。

 やはりこの学園に友だちになれそうな人はいない。

 味方になってくれそうな人はいない。

 マリーが憂鬱な孤独に頭のてっぺんまで浸かっていると、「ペイジ」と外国人女性の短い声が聞こえていた。

 マリーは顔をあげ、ペイジと名乗った外国人女性を見る。

「ペイジ……」そう呟いたあと、マリーは目を輝かせて続けた。「そう、あなたペイジって言うのね。わたしのお鞄を運んでくれてありがとう、ペイジ」

 彼女のくれたたった一言がうれしくて、マリーは声を弾ませた。

 ペイジはマリーに微笑みを返した。唇の隙間から、白い歯が見えた。

「また、遊びに来てね、ペイジ」

 マリーはそう言って期待するようにペイジを見上げた。

 ペイジは肯定とも否定ともとれない表情を浮かべている。が、マリーのことを拒絶している感じはしない。どちらかと言うと、戸惑っている様子だ。それで、マリーは気づいた。外国人女性であるペイジには言葉が通じていないのだ。名前を訊ねられたことだけは何となくわかったのであろうが、それ以外のことは上手く伝わっていないようだった。

「きっとよ、ペイジ」

 それでもマリーは、ペイジに自分の気持ちが伝わってほしくて、そう言った。

 伝わったのか、やはり伝わらなかったのか、ペイジは不明瞭な笑みを浮かべたまま部屋から出て行った。

 ペイジも去り、ひとり残されたマリーは、もう一度部屋の中を見回した。

 何もない部屋だと改めて思う。これから、この部屋で、ひとりぼっちで生活していかなければならない。ママもパパもお手伝いさんもいない。お食事もひとり、お風呂もひとり、ご本もなければ、お人形もいない。この何もない部屋で長い孤独な時間を過ごさなければならないのだ。

 この先の生活が思いやられ何度目かもわからないため息がもれたとき、窓の外からかさかさと葉擦れの音が聞こえてきた。

 マリーは窓のほうに顔を向ける。

 部屋の窓は曇りガラスになっていて、外の景色ははっきり見えないが、ぼんやり映る緑が左右に揺れていて、木の葉が風を受けてなびいているのはわかった。

 マリーはベッドから腰を上げ、窓に向かう。

 曇りガラスの窓を開けると、乾いた風が部屋の中に流れ込んでくる。

 葉擦れの音が大きくなる。

 部屋の目の前に樫の木が聳え立っていて、その大きな枝葉が風に揺れている。

 緑のにおいを含んだ風を胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ気持ちが軽くなった。

 葉音に混じって鳥の鳴き声が聞こえてきた。

 枝のあいだに視線を走らせる。

 一本の太い枝の上に、羽を休める鳥がいた。

 嘴から尻尾の先まで、鮮やかな青色だ。

 見たこともない。図鑑にも載っていない。絵本でも見たことのない不思議な鳥だった。

「うああ」

 まるで空想の中から飛び出してきたような、その美しい鳥の姿に、マリーは思わず感嘆の声をあげた。

「ちちちち」と鳴き真似をしてみる。

 その声に鳥が反応しゆっくりとマリーのほうを向く。

 目と目が合う。

 マリーの鳴き声に応えるように、鳥も「ちちちち」と鳴き返す。

『しんぱいしなくてもだいじょうぶだよ』

 美しい鳥がそう言ってくれているように思え、マリーは思わず笑みをこぼした。

 そのとき突然、ピュッと空気を裂く音がした。

 鳥に向かって何かが飛んできた。

 ガサガサと葉が揺れる。

 驚いた鳥は、大きく羽ばたき飛び去ってしまった。

「あっ」とマリーはと声を出し、遠ざかる青い鳥を目で追い、それから何かが飛んでいたほうを見た。

 女の子が立っていた。

 マリーとおなじくらいの年頃だ。

 その子が鳥に向かって何かを投げつけたらしかった。鳥が逃げ去ったのを確かめると、マリーのほうへ顔を向けた。

 目が合った瞬間、その子は、まるで長年の敵に出会ったかのように、目をつり上げて、睨みつけてくる。

 無論マリーには、初対面の彼女に恨まれる憶えもない。意味もなく睨みつけられるいわれもない。

 唖然として見返していると、女の子は、何を思ったのか、今度はマリーに向かって何かを投げつけてきた。

 マリーは反射的に身をかがめ、床にしゃがみこんだ。間一髪、飛んで来た物はマリーの頭のすぐ上をかすめ、かん、かん、かんと壁や本棚に弾かれ、床に転がった。

 女の子の行動はあまりに常軌を逸していたため、マリーは、何をするの、と文句を言うこともできなかった。頭を抱え、しゃがみ込んだまま成り行きを見守るしかなかった。

 しばらく動くこともできずそうしていた。

 二発目は飛んで来なかった。

 マリーは用心しながら立ち上がり、もう一度、窓の外を見る。

 女の子はいなくなっていた。

 それを確かめたマリーは部屋の中に視線を戻し、女の子が投げつけた物を探した。

 部屋の隅に転がっていた。

 窓から差し込む光を受け、かすかに輝いている。

 それはどんぐりの実だった。

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