調査
2
『この広間のまわりの玄武岩の洞穴の中には、それこそ、ありとあらゆる災難だの、悪だの、病気だの、恐れだの、おそらくこの世がはじまってこの方、人間を悩まし続けてきた秘密という秘密が押し込められているんだよ』(モーリス・メーテルリンク『青い鳥』)
その日を境にマリーの生活は一変した。
これまでのように、単調な日々を漫然と過ごしたりはしない。
つねに周囲に目を配り、注意深く観察し、わずかな変化も見逃さず、不審な点があれば原因を追及する。先生の言動、職員の態度、生徒の様子、さらには、花瓶の花、壁のヒビ、床の汚れ、あらゆるものに意識を向け、小さな異変、わずかな兆候も見逃さない。
マリーは大いなる使命に燃えていた。
自分はリンダのことを憶えていた。学園の秘密に気づいた。自分は選ばれたのだ。この学園と戦う使命を与えられたのだ。選ばれた以上は、その責務を果たさなければならない。選ばれた者として、リンダや、学園に殺された多くの生徒たちの無念をはらさなければならないのだ。
朝、目を覚ましたときから、マリーの行動は始まる。
部屋の中を見回し、昨夜、眠りに落ちる前と違っているところはないか、入念にチェックする。就寝中、学園の人間が忍び込み、何か手を加えている可能性があるからだ。マリーは昨夜の部屋の様子を思い出しながら、部屋の隅々まで目を走らせた。
異常はない。
それを確認したのち、身支度を済ませ部屋を出る、その前にもう一度室内を見回す。鞄の位置、畳んだ布団の形、本棚の並びを頭の中に入れておく。部屋に戻ってきたとき、何か細工がされていないか確かめなければならないからだ。
部屋を出て、食堂に向かうあいだも気は抜けない。
廊下に落ちているゴミ、天井からつり下げられたランプ、高い位置にある窓、食堂に向かう生徒たち……。おかしなところはないか、昨日と変わったところはないか、マリーは細心の注意をはらって観察する。
食堂の前で、園長先生がいつものように朝の挨拶をしている。このときばかりは、マリーも使命を忘れ、何も知らない、何も気づいていない、無辜の生徒を演じる。
「おはよう」
園長先生がマリーに声をかける。
「おはようございます。園長先生」
マリーは以前と変わらぬ従順な生徒として振る舞う。
「あら、マリーさん」
園長先生が何かに気づいたようにそう言い、マリーはどきりとする。が、表情には出さない。
「どうかなさいましたか?」
マリーは訊く。
「いえ、今日はずいぶんとお顔の色がよろしいわね」
園長先生がそう言って、マリーの顔をのぞき込む。他愛のない会話だが、何か裏があるように思え、マリーは決して気を緩めない。
「近頃は気候がよくなってきたから、昨日はぐっすり眠ることができました。たぶんそのせいだと思います」
マリーは当たり障りのない答えを、さりげなく返した。
すると、園長先生は面白くなさそうにぴくりと眉を動かした。
何かまずいことを言っただろうか、とマリーは一瞬身構えたが、園長先生はすぐに表情を戻した。
「そうですか。では、早く食堂にお行きなさい」
そう命じると、園長先生は背筋を伸ばした。
マリーはそっと胸を撫で下ろし、「はい。失礼します」と答え、足早に食堂へ向かった。
席に着いたあとも観察をやめない。
食堂に入ってくる生徒、すでに着席している生徒、うつむいている生徒、あたりを見回している生徒、ひとりひとり確認する。特に変わったところはない。欠けている生徒はいない。生徒の配席も昨日とおなじ。要するに、食堂内におかしな点は見あたらない。
安堵すると同時に、マリーはかすかな失望を覚える。
クリスたちに加わり、調査を初めてから数日経つ。だが、いまだ何も発見できていない。クリスが言うような、奇妙なことも、おかしな点も、何一つとして見つかっていない。クリスは、マリーなら大丈夫だと太鼓判を押してくれたが、その期待に応える自信は日ごとにしぼんでいく。逆に、マリーは役に立たないと言ったトミーの予想のほうが現実味を帯びてくる。
「おはよう、マリー」
考え込んでいたマリーの耳に、遅れてやってきたキララの声が届く。
「おはよう、キララ」
マリーはいったん考えるのをやめて、答えた。
「どうしちゃったの、マリー?」
「何が?」
「溜め息なんてついちゃって」
「何でもないわ」
マリーは苦笑とも微笑ともつかない笑みを浮かべて答えた。
自分たちがやっていることは、他の生徒はもちろん、キララにも話すわけにはいかない。キララのことは好きだし、隠し事なんてしたくない。だが、万が一にも学園に勘づかれるようなことがあってはならない。用心はいくらしてもしすぎることはないのだ。たとえ相手が大好きなキララであっても秘密にしておかなければならない。それに、彼女はリンダのことを憶えていなかった。彼女は選ばれなかったのだ。選ばれなかった彼女にリンダや学園のことを話しても信じないだろう。
「変なマリー」
キララは拗ねたように頬を膨らませ、「だけど、マリー」と続けた。
マリーは、どうしたの? と目で訊く。
「この頃、何だか楽しそうね」
キララが不意に言った。
楽しい?
楽しいとはどういう意味だ?
そう言えば、園長先生もさっき、今日は顔色いい、とか言っていた。
自分たちはいま『ロイタース』の秘密を暴こうとしている。そのために、人知れず学園と戦っている。失敗すれば学園に消されてしまうかもしれない。これは遊びではない。命がけ調査なのだ。
それなのに、キララは楽しそうだと言う。
自分は楽しんでいるのか?
いや、まさか。自分は学園の目をかいくぐり、緊張を持って、任務に当たっている。楽しむ余裕などない。そんな不謹慎なことはしていないはずだ。
「そんなことはないわ。わたしはいつもどおりよ」
マリーは意識して表情を引き締めて答えた。
「そうかしら」
「ええ」
「まあ、別にかまわないんだけど」
キララはつまらなそうにそう言って、青い目の人形、ミチルを隣に座らせた。
その姿に少しだけ後ろめたさを覚えながら、マリーはキララから目を離し、正面を向いた。
朝食が終わると、マリーはキララと別れて、十組の教室に向かった。
十人ほどが机を並べる狭い教室に入り、窓際の席に座る。
少し遅れて、クリスがやってきた。
彼が現れると、教室の中がぱっと明るくなる。モノクロの景色が急に色づくように感じるのだ。
クリスに笑いかけたい。
クリスとおしゃべりをしたい。
クリスにもっと近づきたい。
そんな気持ちでクリスを見つめていると、クリスが不意にこちらを見た。
目が合う。
クリスの表情は硬い。
その瞬間、マリーは我に返る。
そうだ。
いまは調査の最中だ。
そんな甘いことを考えている場合ではない。
マリーは気持ちを切り替え、固く唇を引き結んだ。
それが伝わったのか、クリスは小さく頷いて着席した。
ほどなく先生が現れ、授業が始まった。
「では、最初の問題です」先生が言った。「仲間、お菓子、明かり、高窓、鏡にあって、友達、おやつ、暗やみ、地窓、氷にないものはなんでしょうか?」
簡単な問題だとマリーは思う。
自分たちがいま取り組んでいる難題に比べたら、お手玉よりもたやすい。
「どなたに答えてもらいましょうか」
先生が教室の中を見回す。
「マリーさん」
先生に指名され、マリーは顔を上げた。
「今日は調子がよさそうだから、マリーさんに答えて頂きましょう」
先生が言い足した。
先生も、キララとおなじようなことを言う。
そんなに元気そうに見えるのだろうか、と不思議に思いながら、マリーは立ち上がり、答えた。
「答えは『か』があるかないか、です」
「はい、正解です。よくできました」
先生が言うと、教室内にまばらに拍手が起こった。
難しくもなんともない。わかって当たり前の問題だ。それに正解したところで、別に嬉しくはない。
マリーは席に着いた。
しかし……
何かひっかかる。
今、出された問題が気になる。
『か』のある単語。
仲間、お菓子、明かり、高窓、鏡……。
何だろう?
マリーが考え始めると、「では次の問題です」と先生が授業を進めた。
結局、その後も収穫はなかった。
昼食のときも、午後の授業のあいだも、手がかりらしいものは何ひとつ見つからなかった。一日のスケジュールが終わり、部屋に戻っても、朝と変わらない景色が待っているだけだった。
しかし、必ず何かがあるはずなのだ。
何も変わらない日常のどこかに、学園の秘密を解く鍵が隠されている。巧妙に、複雑に、幾重にも偽装され、人の目から覆い隠されているはずなのだ。
それにしても、とマリーは思う。
こうして違う目で世界を眺めてみると、これまでとは異なって見えてくる。
いままで気にもとめていなかったものが、意味を持ちはじめるのだ。
道ばたに咲く名も知らない花。
誰かが壁に残した落書き。
地面の落ち葉、動物の足跡。
世界は発見に満ちている。
クリスたちに加わり、この学園のことを調べ始めてそれを知った。
もちろん、そんなことが本来の目的ではない。
真の目的は学園の秘密を暴くことだ。
それがわかっていても、マリーはその中で出会うささやかな発見に小さな感動を覚えずにはいられなかった。
ただ毎日をやりすごしていた頃にはなかった刺激だった。




